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日本人が知らない、もう1つあった「太平洋戦争」

1月25日(土)5時15分配信 東洋経済オンライン

現代は交流の盛んな地域の1つである南米ですが、近代化の歴史は以外と知られていません(写真:YNS/PIXTA)
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現代は交流の盛んな地域の1つである南米ですが、近代化の歴史は以外と知られていません(写真:YNS/PIXTA)
南米は明治以降に日本から多数の移民が向かった先で、現代は交流が盛んな地域の1つです。しかし南米の歴史はあまり学校でも習いません。南米の歴史に対する関心も薄く、南米諸国がスペインから独立して以降にどのような歴史を歩んだか知らない人も多いと思います。『あなたの教養レベルを劇的に上げる 驚きの世界史』の著者、尾登氏に南米の近代化について歴史を流れとともにわかりやすく解説してもらいました。

■実は戦争が多かった南米
 南米初の独立国はフランスから独立したハイチで、その後1816年にラプラタ連合(アルゼンチン)がスペインから独立、1822年にポルトガルからブラジルが独立し、その他の地域も順次スペインから独立し、1825年までにはギアナやアンティル諸島など一部地域を除いてほぼ独立を達成しました。

 しかし独立後の南米諸国は、スペインとポルトガル時代からあった利権や資源が絡む領有権問題をそのまま引き継ぎ、かなり頻繁に戦争が起きていました。
 先住民の反乱や党派・政敵同士の内戦を含めるともっと多いのですが、国家間戦争だけを見ても相当な数です。

 バンダ・オリエンタルは現在のウルグアイで、南米随一の良港モンテビデオ周辺に発展した地域です。17世紀後半にポルトガル人が今のモンテビデオの西に町を建設しましたが、1720年にスペイン人がトルデシリャス条約を盾に取ってポルトガル人を駆逐し、サンホセ要塞を築きました。

 その後ブエノスアイレス総督のブルーノ・マウリシオ・デ・サバーラがサンホセ要塞を拡充してモンテビデオを建設しました。
 フランス革命後、イギリスはモンテビデオの領有を狙って侵攻してきますが、有力一家出身のホセ・アルティガスが民兵を組織して抵抗。その後、南米各地で独立運動が起きると、彼は連邦派の一員として独立闘争に参加しました。

 アルゼンチンは1816年にスペインから独立しますが、すぐに連邦主義派と中央集権派とで激しい対立が起こりました。1820年にはカウディーリョ(軍事指導者)の実力が増して連邦主義派が力をつけ、中央集権派の筆頭ブエノスアイレスを圧迫し一時中央政府が崩壊する事態となりました。
 そのようなアルゼンチンの混乱に乗じて、1816年にポルトガルはバンダ・オリエンタルに軍事侵攻。1821年に完全占領しました。ブラジルは翌年にポルトガルより独立しバンダ・オリエンタルの領有を受け継いだため、紛争の火種も受け継ぐことになりました。

■ブラジルVSアルゼンチン「シスプラティーナ戦争」

 独立したブラジルはバンダ・オリエンタルを維持したため、アルゼンチン国内ではこれの奪還を望む声が根強くありました。
 しかしまだ国内の統一ができず中央政府が不在で混乱が続き、ブエノスアイレスは「中央政府が不在の際はブエノスアイレスが外交権を行使する」という法律を制定して、強引に統一国家の体裁を整えました。同年四月、ブエノスアイレスはバンダ・オリエンタルに侵入した独立運動家ラバジェハを支援し、バンダ・オリエンタルのアルゼンチンへの帰属を宣言させました。

 これに激怒したブラジルがアルゼンチンへ宣戦布告し、1825年12月にシスプラティーナ戦争が勃発します。戦いはアルゼンチン優位に進みましたが、アルゼンチン大統領リバダビアの中央集権的な政策に地方州が反発し、再び国家解体の危機に瀕します。
 焦ったリバダビアは危機を脱するため急いでブラジルとの停戦を決め、勝っていたのにバンダ・オリエンタルのブラジルの領有を認めようとしました。これが知られると全土で大反対が起きてリバダビアは辞職。またもや中央政府は崩壊しました。

 戦争はブエノスアイレス州長マヌエル・ドレゴが継続しますが、1828年8月に元々この地に野心のあるイギリスが停戦に介入し、バンダ・オリエンタルを「ウルグアイ東方共和国」という名で独立させることを提案しました。イギリスの提案に両国は渋々合意し、イギリスが漁夫の利を持っていってしまいました。
 新生国家ウルグアイでは、独立後すぐに独立闘争の仲間であったリベラとオリベの確執が激しくなりました。リベラ派が赤の記章のコロラド党、オリベ派が白の記章のブランコ党を結成。コロラド党は都市部、ブランコ党は農村部を支持基盤とするようになりました。

■ブラジルVSアルゼンチンの代理戦争「ウルグアイ戦争」

 そしてこのウルグアイの党派抗争が、アルゼンチンの中央集権派と連邦派の争いと連動。コロラド党は中央集権派、ブランコ党は連邦派のアルゼンチン大統領ロサスと結合しました。1838年7月、ウルグアイでコロラド党のリベラが大統領に就任。しかしアルゼンチンのロサス大統領はこの政権を承認しようとしなかったため、リベラはフランスの支援を得たうえでアルゼンチンに宣戦布告します。ウルグアイ戦争の勃発です。
 この戦いでは、序盤はリベラ軍がオリベ軍をアルゼンチン領に追い詰めるも、アルゼンチン軍の介入でリベラ軍はウルグアイ領内に追い詰められていきました。オリベ軍は1845年2月に首都モンテビデオを包囲。リベラは3月にブラジルに亡命しオリベが大統領に就任しました。ここでバンダ・オリエンタルへの野心をいまだに持つブラジルが戦争に介入。アルゼンチンの自由主義者ウルキーサを支援しウルグアイに侵攻させ、1846年2月にアルゼンチン軍を撃破しました。
 一方、アルゼンチンのロサス大統領はウルグアイのアルゼンチンへの併合決議を強行したため、ブラジルは先手を打って1851年にウルグアイに介入しオリベを追放、コロラド党のリベラを政権の座に就けました。また、アルゼンチンにも介入しウルキーサを支援。ウルキーサは1852年にロサスを敗走させアルゼンチン大統領に就任しました。

 ウルグアイ戦争は結局、ブラジルが支援するコロラド党が勝利するも、その後も両党の争いは終わりをみせず、アルゼンチンとブラジルの介入もあって内乱状態に突入していきます。
 19世紀半ばのブラジルによる近隣諸国への一連の介入は内陸国家パラグアイを大いに警戒させました。パラグアイ大統領ロペスは「パラグアイを大国化し、ブラジルやアルゼンチンに操られない自存自衛の国家」を目指して対外関係を閉ざし、鎖国体制を作り男たちに軍事訓練を施し、南米で最も精強な陸軍を構築。来るべき戦争に備えました。

 1863年、ブラジル政府はウルグアイ大統領ベーロに「ブランコ党による牛泥棒による被害の賠償と責任者の処罰」を求める最後通牒を送りました。ブランコ党であるベーロはパラグアイのロペスに支援を求めてパラグアイ軍の介入を求めますが、ブラジル軍はウルグアイの港を封鎖しブラジル軍をウルグアイに展開させたため、ベーロ大統領は失脚し、親ブラジル派のコロラド党フローレスがウルグアイ大統領に就任。ブランコ党の処罰と賠償金の支払いに応じたのでした。
■国民の半数が死亡「パラグアイ戦争」

 時は来たと、パラグアイ大統領ロペスはブラジル軍の戦線の乱れを突いて一気に攻勢をかけることを決意。1864年11月12日、パラグアイ軍はパラグアイ川を封鎖しブラジル軍を拿捕し、精強な陸軍をブラジルのマット・グロッソに侵入させました。パラグアイ戦争(三国同盟戦争)の勃発です。

 パラグアイ軍はウルグアイの反ブラジル派を支援すると共に、アルゼンチンの反体制派ウルキーサに対し「クーデターを起こしアルゼンチン大統領に就き、共に戦おう」と呼びかけました。しかしウルキーサはこの求めに応じることはありませんでした。
 ブラジルは仇敵のアルゼンチンのミトレ大統領とウルグアイのフローレス大統領と三国同盟を結び、1865年5月1日にパラグアイに宣戦布告しました。

 パラグアイ・ウルグアイ・アルゼンチン連合軍が共にブラジルに攻め入り首都リオ・デ・ジャネイロを占領するというロペスの構想は瓦解し、逆に三国に攻め入られることになってしまいました。しかしながら、ロペスが強化したパラグアイ軍は少数精鋭で手強く、戦線も広い国土のあちこちにまたがっていたためブラジル軍は苦戦し、戦争は長期化します。
 1866年に激戦の末にブラジル軍を主力とする連合軍がパラグアイ川を封鎖すると内陸国パラグアイは不利になり、4月に初めて連合軍はパラグアイ領に侵攻。パラグアイ軍は「国土防衛戦」として女子どもも含め総力で抵抗を続けましたが、1868年8月にパラグアイ防衛の最後の砦ウマイター要塞が陥落。

 パラグアイ軍は総崩れとなって首都アスンシオンに退却。翌年1月5日、アスンシオンは連合軍の攻勢の前に陥落。ロペス大統領は自分に従う部下を率いて北部に逃亡し戦いを継続しましたが、翌年3月にセロ・コラーの地で壮絶に戦死しました。
 パラグアイは国民の約半分が死亡するという大きすぎる犠牲を払い、社会インフラや人的資源も崩壊し、2度と強国として立ち直れないほどのダメージを受けたのでした。

 ボリビアは1825年に独立した後、建国の父シモン・ボリバルの意志を受け継ぎ、強力な中央集権化、教会財産の没収などの自由主義政策を実行しました。一方ペルーは、スペイン植民地時代にはペルー副王領が置かれた南米大陸の政治・経済の中心でありましたが、ボリバルの政策の下で中心地の地位を奪われ、ボリビアと大コロンビアに統合されて辺境の地位に落ちてしまうと警戒感が強まりました。
 一方で南米独立のカリスマ、ボリバルの理想に共感する者も多く、ボリバル派と反ボリバル派の争いや軍人の反乱など国内の混乱が続きました。

 これに乗じて1835年にボリビア大統領サンタ・クルスがペルーを占領し併合。ペルー=ボリビア連合を成立させました。ペルー=ボリビア連合の大統領となったサンタ・クルスはスペイン人とインカ人のハーフで、アルゼンチンのようなアンデスの大国を目指して自ら終身独裁官となります。北方に突然現れた大国に対し、チリではペルー=ボリビアに対する対抗意識が醸成されていきました。
 1836年、亡命中の元チリ大統領フレイリがペルー=ボリビアの支援を受けてチリに侵攻する事件が発生。チリはこれに対する報復としてペルー=ボリビアに宣戦布告しました。チリ遠征軍は1837年9月、バルパライソを出港しアレキーパに進軍しますがペルー軍の反撃にあい敗北。態勢を立て直したチリ軍のブルネス将軍は1838年8月にペルー領内に攻め込みリマを占領し、ユンガイの戦いでペルー=ボリビア連合軍を降しました。
 この敗北によって連合は崩壊し、サンタ・クルスはヨーロッパに亡命しました。このボリビア、ペルー、チリの太平洋岸の3カ国は、1879年に太平洋戦争で再び相まみえることになります(なおここでいう太平洋戦争とは1941年に勃発した同名の戦争と区別するため、硝石戦争とも呼びます)。

■南米における「太平洋戦争」

 チリとボリビアの国境近くにあるアントファガスタ県は、硝石や銅などの鉱物が大量に眠る地域で、長年両国間の係争地でした。1866年に国境協定が結ばれ、南緯24度を国境として北をボリビア、南をチリが折半すると決められましたが、チリ・イギリス系の採掘会社がこの地域に進出し、ボリビアは警戒感を強めました。一方でペルーのタクナ県、アリカ県、タラパカ県の硝石地帯にもチリ・イギリス系の採掘会社が進出。
 この脅威に対し、ペルーとボリビアはチリから硝石地帯を守る秘密同盟条約を結びました。同盟を結んだ両国はチリの採掘会社に対し強硬な対応をとり始めます。1875年、ペルーのパルド大統領はペルー国内で活動するチリ・イギリス系会社を買収。ボリビアは1878年チリ・イギリス会社が国内から硝石を輸出する際に新たな関税をかけました。チリがこれを拒否すると、ボリビア政府は硝石採掘会社を接収し、競売で国内企業に売り払ってしまいました。
 怒ったチリ政府は1879年4月に両国に宣戦布告。南米における太平洋戦争が勃発しました。

 戦闘は、タラパカの会戦とイキケ、アリカ港沖の海戦でチリ軍が圧勝。翌年6月にタクナ県とアリカ県を占領。さらにチリ軍はピスコに上陸し、イカの町を占領。最終決戦の準備を整えたチリ軍は1881年1月に2万5000名の軍勢でペルーの首都リマを攻撃して占領し、ペルーは降伏しました。

 これによりチリはタラパカ県を手入れ、アリカ県とタクナ県の10年間の占領も認められました。ボリビアも1884年4月に休戦協定を結び、アントファガスタ県のチリへの割譲が合意され、これによりボリビアは海に面した土地を失って内陸国となってしまったのです。
尾登 雄平 :歴史キュレーター

最終更新:1月25日(土)5時15分

東洋経済オンライン

 

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