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アメリカ保守が「建国の父」を自己批判した理由

8月20日(火)6時20分配信 東洋経済オンライン

今、アメリカではリベラリズムをめぐって大きな論争が起こっている(写真:AcidTestPhoto/iStock)
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今、アメリカではリベラリズムをめぐって大きな論争が起こっている(写真:AcidTestPhoto/iStock)
EU離脱をめぐって渦中にある英国で10万部を超えるベストセラーとなり、世界23カ国で翻訳され、日本でも刊行された『西洋の自死 移民・アイデンティティ・イスラム』。同書は、欧州における移民問題を切り口に、「リベラリズム」がいかに死んでいくのかを、英国のジャーナリストがつまびらかにレポートした本だった。

ではリベラリズムの本場であるにもかかわらず、トランプ大統領を生んでしまったアメリカでは、いまどのような議論が展開されているのか。2018年にアメリカで刊行され、ニューヨーク・タイムズをはじめとするさまざまなメディアで取り上げられた『Why Liberalism Failed』という本を中心に、政治哲学研究の俊英、施光恒氏がレポートする。
■アメリカで大きな反響

『Why Liberalism Failed』は2018年にアメリカで出版された政治哲学の本で、直訳すれば「リベラリズムが失敗した理由」となる。

 著者パトリック・J・デニーンは1964年生まれの55歳。カトリック系のノートルダム大学の政治学者で、自らもキリスト教徒であり、アメリカでは保守派に相当する。

 リベラリズム(自由主義)の定義は文脈により異なるが、ここでは、個人主義の立場をとり、個人の選択の自由やさまざまな権利に価値を置き、その保障のために社会や国家が作られたという見方を意味するといえる。
 著者であるデニーンは、リベラズムが現代の主流の思想であり、とくにアメリカはリベラリズムの理念に基づき作られた国だということを認めつつ、リベラリズムを正面から批判していく。リベラリズムを基礎とするアメリカの建国の理念や憲法に対してまで疑念を突きつけるラディカルな書物だといえる。

 だが、リベラル派の牙城ともいえるニューヨーク・タイムズ紙でも出版直後に複数回書評で取り上げられたのをはじめ、さまざまなメディアでその主張が論じられ、ハードカバー版に続いてペーパーバック版も出るなど、アメリカ国内では大きな反響があったことがうかがえる。
 著者は、「世界の3大イデオロギーはリベラリズム、ファシズム、マルクス主義である」とし、「リベラリズムはファシズムよりもマルクス主義よりも大きな成功を収めてきたが、他の2つのイデオロギーと同じく、最終的にはうまくいくことはない」とする。

 なぜならリベラリズムは、それが前提とする人間観(ヒューマンネイチャー)そのものが誤っているからだという。

 リベラリズムは人間を自然とのつながり、特定の時(歴史)や場所(風土)とのつながりから切り離し、抽象的、個人主義的、普遍的存在として認識している。それは典型的には社会契約論において示されている。
 社会契約論における人間は、生まれながらにして自由な個人である。個人の同意に基づいて、社会、国家が制度設計される。その目的は個人の権利を保障し、個人の自由を最大限に実現することだ。しかし著者は「そのような人間観は間違っている」と断じる。

■反・文化としてのリベラリズム

 著者によれば、リベラリズムは「反文化」である。文化とはここでは、非法律的、非政治的でインフォーマルな社会的慣習、規範、人々の教養などを指す。社会は法律以前に、慣習や社会的規範、宗教といったインフォーマルな秩序で成り立っているとみる。
 近代以前のヨーロッパで「自由(liberty)」というとき、それはギリシャ的な意味でのセルフガバナンス(自己統治)の確立を意味していた。つまり自由とは、リベラルアーツ(教養教育)を学び、人格を陶冶し、徳(virtue)を身につけて、低レベルの悪しき欲望にとらわれない、自律的個人としての自己を完成させることを意味した。

 それが共同体の統治にもつながる。一人ひとりの個人がシビック・バーチュー(市民としての徳)を身につけたうえで、共同体の共通善を追求し、共同体の統治を自ら行っていく。ここでも自由とは「自分たちの社会は自分たちで統治していく」という自己統治の自由を意味する。
 ヨーロッパの教育でリベラルアーツが重視されてきたのは、そのためである。教育の目的は古典文学などの文化に触れさせることによって人格を陶冶し、若者を、個人としても共同体を担う市民としても自己統治できる存在に育て上げることにあった。

 しかしルネサンス以降、リベラリズムというイデオロギーが出現してから、自由の意味は「人格を陶冶し、欲望を抑制し、自己統治すること」ではなく、「欲望充足への制約をなくしていくこと」へと変質してしまった。
 リベラリズムは自己抑制を旨とする社会規範を、また相互調整によって成り立つ中間的共同体を、「個人の自由に対する制約」と捉え、これを破壊しようとする。「だからリベラリズムとは反文化(アンチ・カルチャー)であり、アンチ・リベラルアーツなのだ」と著者は言うのである。

 アメリカでも日本でも近年、大学ではリベラルアーツを縮小し、会計学やプログラミングのような、より実用的な科目に比重を置くようになっている。その根底には上記の自由の捉え方の変化がある。「個人の欲望を充足するうえで妨げとなる拘束を取り払っていくことが自由である」と考えられるようになると、リベラルアーツは不要な文化的・伝統的な拘束として退けられ、欲望充足のための実用的な知識が重視されるようになるのである。
 リベラリズム型個人主義が蔓延した結果、社会は欲望を追求する個人の集合体となった。共通の社会的規範が失われたことで、自律的な秩序形成は困難になり、かつては文化が担っていた秩序形成作業をすべて、権力機関が代行しなければならなくなった。

 結果、維持すべき秩序を明文化した法律が社会全面に張り巡らされ、権力に裏打ちされた執行機関がその遵守を人々に強制するようになった。かくしてリバイアサン的な強権国家が誕生する。
 「一般的には個人主義と国家主義は対立するものだと見られているが、実は個人主義化が進めば進むほど、社会は国家主義的になっていく。個人主義と国家主義は互いに手に手を取り合って、近代社会を形成してきた」と著者は主張する。

■科学技術の発達と自由の喪失

 著者によれば、ヨーロッパでもかつては人間と自然はつながっており、人は自然界の一部であると考えられていた。しかし、近代以降、自然環境は人間の自由を束縛する拘束とみなされるようになり、人間と自然のつながりを切り離し、科学技術を通じて自然をコントロールし、自然環境の制約を脱することが科学の目的となっていった。
 さらに現代では科学技術の進歩は所与の条件と捉えられ、人間はそれを制御できないと思われるようになっている。

 著者は宗教的信条のため科学技術と距離を置くアーミッシュの生活スタイルを取り上げ、「人間は本来、どの科学技術を取り入れ、どれを取り入れないかを自ら決めていくべきなのに、その判断を放棄している」とする。

 アーミッシュは例えば保険制度を取り入れない。なぜなら共同体内部の相互扶助こそが共同体の絆であるため、保険という匿名の相互扶助システムは共同体を害するものだと考え、取り入れないのだという。
 一方、リベラリズムの世界では、そうした選択の力が人間の側にあること自体、まったく考えなくなっている。結果、個々人の生活や社会のあり方を、発展していく科学技術に合わせて変えていかねばならなくなった。「それはかえって人間の自由を損なうことにつながっている」と著者は主張する。

 著者はまた、「リベラリズムは身分や階層なき社会を作ることをめざしていたはずだが、結局は経済的格差に基づく新しい階層社会を作ってしまった」と批判している。
 まず古典的自由主義者たちが市場主義を進め、業績主義的な社会を作った。続いて進歩派リベラルがノブレス・オブリージュ的な社会的義務を否定していき、結果的に「高学歴・高収入のエリートは何にも縛られなくていい」という形になってしまった。

 「保守的リベラルと進歩的リベラルは同根で、両者が手に手を取り合ってリベラルな社会を作り上げ、それがポピュリズムの温床になっている」と指摘している。エリートを特権的存在にしてしまう現代のリベラルな社会に対する多数の庶民の反発こそ、昨今のポピュリズム運動だというのである。
 一般にリベラリズムとデモクラシーは相補的な関係にあると考えられているが、著者は「リベラリズムの理念の中には民主政を侵食する考えや制度が含まれており、リベラリズムは文化の破壊を通じてデモクラシーの基礎となるシティズンシップ(市民性)を消滅させ、また特定の歴史、特定の場所と人とのつながりをなくしていこうとするので、リベラル化が進めば進むほど人々の共同体に対する愛着は薄れ、政治に無関心になり、投票率も下がっていく」と述べている。
■リベラリズムへの批判

 著者はまた「アメリカの政治は建国以来、一貫して民主的なインプットを制限しようとしてきた。業績主義的な社会を作り、知的エリートや持てる者が力を得られるような社会を作っていった」として、建国の父たちも批判している。

 アメリカ建国当時、ジェームズ・マディソンやアレクサンダー・ハミルトンなどのフェデラリストは、「小さな共同体では派閥政治になってしまう可能性がある」として、なるべく枠組みを大きくし、ローカルではなくフェデラルな制度を作っていこうとした。
 自己陶冶によって己の欲望を抑制しうる個人を育成し、彼らの自己統治によって秩序を作り出すのではなく、権力を分立させた多元的な社会を作り、人間同士が互いの欲望を衝突させることによって、勢力が均衡し、結果的に秩序が成立するような体制を考え出した。

 「アメリカという国は元々そういう狙いでできた国なのだ」と著者は言う。

 そうやって徹底的にリベラリズムを批判したうえで、「アメリカ人はリベラリズムにとらわれて頭でっかちになってしまった。
 それを改め、再びローカルな共同体重視の生活実践を信頼し、政治社会の構想を練り直すべきだ」と述べる。ポストリベラルの新しい社会構想は、理論的に作るのではなく、共同体重視の生活実践にもう1度立ち返って、その生活実践のなかから時間をかけて徐々に紡ぎだしていくべきものだというのである。

■アメリカの自己反省の書

 本書を通読して、格差の拡大、国民の分断、民主主義の機能不全、そして秩序形成における文化や自己陶冶の重要性など、問題意識については共感できる部分が多いと感じた。
 共通の社会規範があれば秩序が自生的にできるので、穏健な統治が可能になる。ばらばらの個人、文化的共通性がない人々をまとめようとすると、強力な体制が必要になってくるという指摘も、そのとおりだと感じる。

 一般に大陸国家は広大すぎて、共通の文化はなかなか育まれない。中国にしろロシアにしろ、大陸中央に中央集権的な巨大国家がつねに生まれてしまうのは、文化的にばらばらな国民をまとめるためという必然性からだった。
 グローバル化が進めば、こうした大陸国家だけではなく、日本やアメリカ、欧州諸国などの他の地域でも、ばらばらになった人々をまとめ、秩序を作り出すために強権的な管理国家を作り出さざるをえなくなるのではないだろうか。

 もう1つ、リベラリズムの人間観についての指摘も共感できる。特定の時間、特定の場所から人間を切り離して捉えたことで、文化的差異が入り込む余地がなくなってしまった。それがグローバル化を称賛することにつながったという点である。
 一方で著者がリベラリズムの理論全般に疑いを持って、「理論ではなく実践から始めよ」と「大草原の小さな家」のような古き良き共同体重視の生活に戻れというかのごとく主張するのは、やはり極端すぎるだろう。

 文化や歴史、風土を担った存在としての人間観を前提に新たに理論を組み立て、リベラリズムを捨てるというよりは改善して、具体的な制度的変革に結びつけていくことは十分、可能なはずだ。

 著者はペーパーバック版の序文で、「この本は多くの人からは無視されるだろうと思っていた」と書いている。それが意外に好評を博し、リベラル派からも真面目に取り上げられる結果となった。
 アメリカでこうした反リベラリズムの主張が受け入れられたのは、著者も自己分析しているように、グローバリズムやその根底にある行きすぎたリベラリズムに対する人々の疑念が強まっているからであろう。外国人の目から見ると「アメリカの自己反省の書」といった趣も感じさせる。

 現在の世界の政治情勢を考えるうえで、大変刺激的な本と言える。
施 光恒 :政治学者、九州大学大学院比較社会文化研究院准教授

最終更新:8月20日(火)6時20分

東洋経済オンライン

 

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