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韓国の空港で暮らす「アンゴラ人一家」の真実

6月17日(月)6時10分配信 東洋経済オンライン

韓国の仁川国際空港に150日以上も“暮らしている”アンゴラから来たルレンドさん一家(筆者提供)
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韓国の仁川国際空港に150日以上も“暮らしている”アンゴラから来たルレンドさん一家(筆者提供)
 「自分の国に帰ったら殺されるかもしれないのに、外国にも行っちゃいけない、空港から外にも出してもらえないなんて、おかしいと思わない?  考えられる?」そう話すのは、熊本に住む7才の少女、小都(こと)ちゃん。

 5月初旬、小都ちゃんは家族旅行中に韓国・仁川国際空港で、アンゴラから来た6人家族、ルレンド一家と出会った。6時間ものトランジットで暇を持て余す小都ちゃんが、同じ年頃の子どもたちに「一緒に遊んでいい?」と声をかけたのがきっかけだった。
 ルレンド一家は、祖国アンゴラで命の危険を感じ「難民」としての受け入れを望んで韓国に逃げてきたものの、難民申請はおろか入国すら許されていない。現在控訴中で、空港の中に150日以上も“住む”ことを余儀なくされている。

 小都ちゃんの家族は、日本に帰国後もルレンド一家のことが気がかりだった。「ただの旅の思い出話で終わらせてはいけない」と、ルレンド一家を救うために手作りのチラシを配布したり、SNSで国内外に情報発信を始めた。
■空港でひときわ目立つルレンド一家

 5月中旬、筆者は、熊本で開催されたイベントでチラシを配る小都ちゃんに偶然に出会い、ルレンド一家の存在を知ることとなった。そして10日後、筆者は仁川国際空港へ飛んだ。

 空港第1ターミナルの会員専用ラウンジの前で、荷物を山積みにし、並べたソファをベッド代わりにして生活する一家の姿はすぐに目を引いた。ルレンド一家は、夫妻とリマくん(9)、双子のロデちゃん(8)とシロくん(8)、グレイスくん(6)の6人家族。空調で冷え切った室内で過ごす家族は、時折身震いや咳をし、疲弊しているように見えた。
 ルレンドさんの祖国アンゴラでは、1975年から2002年まで内戦が起きていた。戦火を逃れて隣国コンゴ民主共和国(旧ザイール共和国)へ渡り、内戦後に再びアンゴラに戻ってきた人たちは裏切り者扱いをされ、侮蔑の意味を込めて「バコンゴ」と呼ばれて差別されてきた。両親の避難先のコンゴ民主共和国で生まれたルレンド夫妻は、大人になって祖国アンゴラに戻ってきた。そこでルレンド一家はバコンゴとされ、日常的に差別を受けてきたという。
 状況が一変したのは、2018年11月16日。タクシー運転手だったルレンドさんは、運転する車の前に急に飛び出してきた集団を避けた際、アンゴラ警察の車と軽い接触事故を起こしてしまった。言語の違いによってバコンゴであることを警察に気付かれたルレンドさんは暴力を振るわれ、車の前に飛び出してきた人物に対する殺人容疑で逮捕された。刑務所でも警察からの暴行は続いたという。

 逮捕から9日目の深夜、1人の警察官が突然ルレンドさんを刑務所から連れ出し、別の警察官2人と共にルレンドさんを車に乗せて走らせた。ルレンドさんは、このままどこかで銃殺されるものだと思い、むせび泣いていたという。
 しかし15kmほど走った後、ルレンドさんは突然車外に出され、逃げるチャンスを与えられたというのだ。いまだにその理由は不明だが、恐らくその警察官自身もバコンゴであり、ルレンドさんを不憫に思って助けてくれたのかもしれないという。

その夜、ルレンドさんは教会に身を潜めていた。ルレンドさんの自宅には、刑務所からいなくなった彼を探しに3人の警察官がやってきたという。そしてそのうちの2人の警察官が家の中に入ってきて、ルレンド夫人をレイプして帰ったというのだ。眠っている子どもたちは何も気付かなかったのが不幸中の幸いだったが、夫人は恐怖で朝まで泣いて過ごしたという。
■「子どもたちの人生だけは守りたい」

 その翌日から約1カ月間、夫人と子どもたちは教会の監督の家にかくまってもらい、ルレンドさんは教会に隠れ続けた。警察官がバコンゴに路上で暴力を振るい銃殺することも珍しくないというアンゴラで、ルレンド一家は命の危険を感じずにはいられなかった。「アンゴラから逃げ出さないと殺される。どこでもいいから海外へ」と一家は、自宅近くの韓国大使館で観光ビザを取得し、アンゴラを後にした。
 2018年12月28日、韓国・仁川国際空港に到着したが、入国許可が下りなかった。ルレンドさんの母語フランス語での短い電話審査の後、入国不許可の判断が下されたのだ。祖国に強制送還されなかったのは救いとも言えるかもしれないが、現在に至るまで150日以上もの空港生活が続いている。所持金も底を突いているため、韓国人を中心とした支援者たちからの寄付や支援物資で日々をしのいでいる状態だ。

 この生活が心身に与える負担の大きさは計り知れない。子宮筋腫、卵巣のう腫、膀胱炎などと診断され、体調不良を訴えるルレンド夫人だが「私はここで死んでも構わない。でも子どもたちの人生だけは守りたい。学校にも行けずこんな生活をさせてしまい、申し訳なくて」と涙を浮かべていた。
 アンゴラで教会の監督の家に身を潜めていた期間は、家族の身の安全のために、子どもたちは学校に行かせなかったという。しかし夫人は、期末テストの日だけは子どもたちを守りながら学校へ連れて行き、午前中2時間のテストだけは受けさせたという。

 その理由を尋ねると「子どもたちの進学がかかっているから。子どもたちの未来のために、試験だけはパスさせて進学させないと」と話した。

 ルレンド夫人は大学で会計学を学び、結婚前はコンゴの信用金庫で働いていたという。教育とキャリアに恵まれたルレンド夫人は、その重要性を実感しているのだろう。何よりも子どもたちの教育を望み、空港内では支援物資として届いた教材で、子どもたちに厳しく勉強を教える姿が印象的だった。
 「人を助けたいから医者になりたい。午前中は医者になるための学校に行って、午後はダンスの学校に行きたいの」と目を輝かせて勉強するロデちゃん。筆者が「アンゴラの学校のお友達に会いたくない?」と尋ねると、「会いたいけど、アンゴラに帰るとバーンって殺されるから帰りたくない」と、ロデちゃんは銃で撃たれるポーズをした。その姿に思わず悲しい表情で返した筆者に対し、彼女は「ノーノー!  スマイル!」と言って、筆者の表情をまねした後、大きな笑顔でおどけて見せた。
■小都ちゃんの存在が大きな支えに

 そしてロデちゃんは、一枚のポストカードをうれしそうに見せてくれた。熊本の小都ちゃんからの手紙だった。「ハーイ、ロデ、愛してる。大丈夫?  また会いたい。小都」と書かれていた。 アジアで見つけた大事な友達、小都ちゃんの存在は大きな心の支えになっていることだろう。

 ルレンド一家の取材後、小都ちゃんに報告の連絡をいれた。小都ちゃんが届けた洋服をロデちゃんが着ていたことを伝えると、「私の友達もいらない服があるかもしれんけん、相談してみようかな」とうれしそうに話し、自分に何ができるのかを模索し続けていた。
 実は偶然にも、小都ちゃんの父親ウィーさんは、2才のときにベトナムからアメリカへ渡った難民だったという。ウィーさんは「小都を誇りに思う。彼女は直感に従って正しいと思うことを判断し、行動している。小都のその想いを守るために、親としても全力を尽くしたい」と話した。

 小都ちゃんのように目の前の他人に対して心を寄せる共感力と行動力があれば、私たちはもう少しあたたかい世界を作ることができるのかもしれない。6月20日「世界難民の日」を前に、大人のあなたたちには何ができますか、と小都ちゃんにまっすぐな問いを投げかけられているような気がしてならない。
 日本では報道されていないが、韓国では、ルレンド一家の様子はテレビなどで報道されており、賛否両論が巻き起こっている。それにしても、韓国はなぜルレンド一家の受け入れを拒んだのか。そして、7月に予定している第二審へ向けてのルレンド一家を取り巻く動きについて、次回詳しく伝えたい。
桑原 りさ :キャスター

最終更新:6月17日(月)9時02分

東洋経済オンライン

 

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