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渋沢栄一いくつかの小話(4完)岩崎弥太郎と熾烈な海上覇権争い、日本郵船が誕生

6月16日(日)16時00分配信 THE PAGE

[画像]晩年の渋沢栄一(深谷市『渋沢栄一翁の顕彰とレンガを活かしたまちづくり』より)
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[画像]晩年の渋沢栄一(深谷市『渋沢栄一翁の顕彰とレンガを活かしたまちづくり』より)
 「日本の資本主義の父」と称される渋沢栄一が、2024年から新しい1万円札の顔になります。江戸後期から明治、大正、昭和を生き抜いた実業家で、第一国立銀行をはじめ、日本初の私鉄である日本鉄道会社や王子製紙など約500の会社に関わった一方、約600の社会公共事業にも力を注ぎました。市場主義経済の象徴として現在の取引所の姿があるのは「渋沢のおかげ」と評価され、企業コンプライアンスが厳しくなった現代にあって、その哲学が再び注目されています。そんな渋沢の考え方や人柄が伝わるエピソードを、硬軟織り交ぜて集めました。市場経済研究所の鍋島高明さんが4回連載で紹介します。最終回のテーマは「vs 岩崎弥太郎」です。

渋沢は上杉謙信? 岩崎は織田信長?

 三井財閥の重鎮・高橋箒庵(そうあん)は、その著「箒のあと」で明治の財界人を戦国武将に置き換えながら人物評を展開するが、敵に塩を送った上杉謙信の故事に共感する高橋翁は「渋沢栄一は上杉謙信である」とし、こう記す。

「渋沢栄一は身代(しんだい)は余り大きくなく、もしその富を比較すれば世間これに数倍するものもあろうが、その徳望の盛んなるに至っては、実に当世第一人者で、あたかも上杉謙信が領地もあまり広からず、人数もそれほど多くないのに、侠名、義声、天下を動かして、隣国ことごとく畏服したのと、大いに似通ったところがある。敵が食塩に乏しいと聞いて車に積んでこれを送り、敵の大将が死んだと聞いて箸を投じて泣いたというほどの義侠を、現代に求むれば、渋沢をおいてほかにないだろう」

 渋沢財閥は、事業規模では三井、三菱の敵ではないし、住友、大倉、安田、浅野などにも及ばないが、渋沢栄一の徳望の大きさにおいて他を圧している。「徳」の人、渋沢はコンプライアンスの重要視される時代になって一層光りを増してきた。三井の最高顧問格でもある渋沢にとって生涯最大のライバルは、三菱の祖・岩崎弥太郎だろう。前出の高橋説によれば岩崎は織田信長。その根拠をこう記す。

「人となり闊達、果断でよく相手の機先を制し、かの共同運輸会社と競争して、ついにこれを三菱汽船会社と合併するほどに至った策略ぶりのごとき、信長が桶狭間の夜襲をもって今川義元を屠(ほふ)り、浅井、朝倉を滅ぼして、京都に攻め上った軍略と大いに似ている」

渋沢の「合本主義」と岩崎の「独占主義」

 海上輸送で覇権を握った三菱による独占の弊害が目立つようになり、政府と三井は「共同運輸会社」を立ち上げる。そして未曽有の運賃値引き競争に発展、三菱の勝利に終わるが、渋沢栄一は岩崎についてこう語っている。

「岩崎は共同出資で事業を経営することに反対した人である。多人数寄り集まって仕事をすれば理屈ばかり多くなって成績の上がるものではないという意見で、なんでも事業は一人でどしどしやっていくに限る主義であった。私が主張する合本主義の経営に反対したが、それだけに部下に人材を網羅することには骨を折り、学問のある人を多く用いた。私は弥太郎のなんでも自分一人でやるという主義に反対だったから万事に意見が合わなかったが、明治6(1873)年に私が官途を辞めてから弥太郎氏は私とも交際しておきたいとのことで兜町の宅に訪ねてこられた」

対決は岩崎弥太郎の「連勝」でスタート

 資本を出し合って株式会社経営の時代が来たと説く渋沢と独占主義の岩崎は相交わることはない。渋沢と岩崎の対決は生涯5、6回に及ぶが、いずれも岩崎が渋沢に仕掛けた形跡が濃い。まず第1ラウンドは渋沢の肝いりで設立した日本帝国郵便汽船と三菱商会の対決。渋沢は後日述懐している。

「お上の息のかかった帝国郵船の成績はすこぶる不良、しかるに弥太郎は鯨吠ゆる土佐の海を渡ってきた男だ。身上(しんじょう)は小さいけれども、野育ちだけに手荒いことも平気でやる。されば勝負はすでに明らかだった」


 明治11(1878)年、渋沢が三井系の資本を合本して東京株式取引所(東株)が誕生する。ついに渋沢の持論が実践された。資本金20万円の株式会社で、頭取には初め小松彰が就くが、すぐ渋沢栄一の従兄・渋沢喜作を据える。栄一と喜作は“お神酒徳利”と言われるほど仲が良かった。岩崎がどうやって株を集めたか分からないが、西南戦争(1977年)で巨利を博した後だけに値段を問わず買いまくり、臨時株主総会の開催を要求、“渋沢内閣”を退陣に追い込む。側近の朝吹(あさぶき)英二ら息のかかった経営陣に改め、乗っ取ってしまう。

「渋沢の兵糧を断つ」とばかりに岩崎の攻めは続く。渋沢の本陣、第一銀行の大口預金者が東京米穀取引所(東米)であることを突き止めると東米の株買い占めに着手。朝吹の株集め策が成功、株主総会でどんでん返しを演出、またも岩崎の勝利。

半官半民で「共同運輸」設立し三菱に挑む

 海上輸送での三菱の独占を黙認できない渋沢は、地方資産家に出資させて東京風帆船(ふうはんせん)会社を発足させる。だが三菱の勢いを止めるに至らず、明治15(1882)年に一大海運会社を設立する。渋沢自慢の株式会社で資本金は実に600万円、前述の「共同運輸会社」の誕生である。半官半民の国策会社で、明治16年1月1日に営業開始。初めは船体不足で三菱の優位は動かなかったが、社長である森岡昌純自らイギリスに乗り込み、新鋭汽船を購入して戦力アップするにつれ競争が激化する。

 歴史に残るすさまじい運賃の値下げ合戦となる。神戸~横浜間の運賃は、これまでの下等船客5円50銭が1円50銭になり、1円になり、とうとう55銭にまで暴落。共倒れの気配が強まり、明治18(1884)年1月13日、西郷従道農商務卿は両社に競争中止を勧告する。協議を重ね、2月5日に休戦が成立。この2日後に弥太郎が死去。三菱の大将は弟の岩崎弥之助となる。

 再び競争が始まるが、同年8月15日、共同運輸会社の臨時株主総会で三菱との合併を決議、「日本郵船」となる。共同運輸600万円(民間340万円、政府260万円)、三菱500万円出資、資本金1100万円の巨大会社の誕生となった。

 渋沢が往時を語る。「弥太郎氏は私との間に仲直りできないうちに没したが、その後競争はますます激しくなり、両社とも共倒れになって外国汽船会社に乗ぜられるよりほかになきに至ったので政府も調停に決し、私も両社合併に骨を折り、9月に合併、日本郵船会社が設立されることとなった。以来私と岩崎家との確執も解け、弥之助氏とは親密に交際するに至った。明治26(1893)年には弥之助の要請を入れて日本郵船の取締役に就任する。渋沢と岩崎兄弟の戦いは大団円となる。

 異能のジャーナリスト野依秀一の渋沢栄一評。

「資性温厚、人格高邁にして一度事に当たるや、いささかも私利を希わず、常に国家的見地に立ち、深謀遠慮をもって邦家永遠の計を成す。論語を信奉し、処世の大道となすことに終始して変わらなかった。実に近世日本における稀有の俊傑、財界の元老にして、その遺績たるや、廟堂の元勲諸公に比して優るとも劣ることはなかった」=敬称略


■渋沢栄一(1840~1931)の横顔
天保11(1840)年、武蔵国血洗島村(埼玉県深谷市大字血洗島=ちあらいじま)で生まれる。村でも有数の財産家だった。13歳のころ父に連れられて初めて上京する一方、単身で藍玉の買い付けに出かける。慶応2(1866)年、幕臣となり、翌3年にパリ万国博使節として渡欧、明治3(1870)年に官営富岡製糸場主任、同8(1875)年、第一国立銀行頭取。同11(1878)年に東京商法会議所(のちに東京商業会議所)会頭、同20(1887)年に帝国ホテル会長、同24(1891)年に東京交換所委員長を歴任した後、同34(1901)年、飛鳥山に転居、本邸とする。同35年に欧米視察、同42(1909)年に米実業団を組織して渡米。大正4(1915)年に渡米、同6年に理化学研究所を創立(のち副総裁)し、同9(1920)年には男爵から子爵へ。同12(1923)年の関東大震災で兜町の邸宅は消失。昭和6(1931)年11月11日没。天保以来、11の元号を生き抜いた。「青淵」の雅号は近くにきれいな淵があったことに由来する。

最終更新:6月17日(月)10時25分

THE PAGE

 

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