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渋沢栄一いくつかの小話(3)「損して得取れ」? 型破りな借金手口

6月15日(土)16時01分配信 THE PAGE

[画像]侍姿の渋沢栄一(深谷市『渋沢栄一翁の顕彰とレンガを活かしたまちづくり』より)
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[画像]侍姿の渋沢栄一(深谷市『渋沢栄一翁の顕彰とレンガを活かしたまちづくり』より)
 「日本の資本主義の父」と称される渋沢栄一が、2024年から新しい1万円札の顔になります。江戸後期から明治、大正、昭和を生き抜いた実業家で、第一国立銀行をはじめ、日本初の私鉄である日本鉄道会社や王子製紙など約500の会社に関わった一方、約600の社会公共事業にも力を注ぎました。市場主義経済の象徴として現在の取引所の姿があるのは「渋沢のおかげ」と評価され、企業コンプライアンスが厳しくなった現代にあって、その哲学が再び注目されています。そんな渋沢の考え方や人柄が伝わるエピソードを、硬軟織り交ぜて集めました。市場経済研究所の鍋島高明さんが4回連載で紹介します。第3回はいくつかのエピソードを集めました。

●香港でコックになる?

 慶応3(1867)年、渋沢は水戸の民部大輔(みんぶたゆう)徳川昭武に従って洋行の途に就こうとしていた。ところが洋服がない。急いで横浜に行き古着商でイブニングコート(燕尾服、夜会服)を一着買い、大喜びの渋沢は友人たちに自慢気に言った。「この服は腹部が短くて、腰部が長い。思うにこれは西洋のサムライが着る服に違いない」。友人たちも「多分そうだろう」とうなずいた。

 一行が香港に着いてホテルに入ると、ボーイの態度が怪しい。渋沢だけが冷遇されているようだ。渋沢は怒ってボーイをなじった。ボーイは平然として言った。「あなたはコックではないですか」。この時初めてすべてを知った渋沢はまさに冷や汗3斗。当時欧米ではコックは常にイブニングコートを着る習慣だったから渋沢はコックに間違われたのである。

●岩崎弥太郎から美人を奪う

 渋沢栄一と三菱グループの創業者・岩崎弥太郎は明治の財界でそれぞれ一派を成し互いに譲らず、相対立していた。明治初め、岩崎は隅田川に数十隻の屋形船を浮かべて観桜の宴を催した。

 新橋、柳橋といった花街のキレイどころを大勢はべらして、三菱の隆昌を天下に誇示せんとしていた。岩崎の乗った船は名妓数人を従え、悠然と杯を挙げていた。

 天下の経済人たちは何とか岩崎の盃にありつきたいと船を岩崎に近づけようとする。この日の岩崎の思い入れは有象無象の経済人ではない。狙いは渋沢である。岩崎はかねて渋沢の知略をほしいと念じていた。「敵将をくじくはこの時機をもってすべし」とばかり、使いの者を渋沢のもとにやり、渋沢が岩崎の船に乗り移る。

 渋沢は岩崎に一礼すると、岩崎のそばに胡坐を組んで、「これは大変なご馳走だ」と言いながら杯を次々と空にしていく。酔いが回った渋沢は名妓の膝を枕に横になる。岩崎の狙いはまさに的中寸前である。岩崎「渋沢君、起きろよ、もっと飲めよ」と渋沢をゆする。

 渋沢「私はもういかん。酒は御免じゃ。その代りこれを借りていくよ」と、岩崎が最愛の妓3人を連れて渋沢愛用の向島の料亭「八百松楼」に上り、別宴を張る。岩崎は茫然としてポツリ。「あいつのすることは実に癪に障る。どうもえらもんじゃ」。岩崎は渋沢を篭絡することにまたも失敗する。

●型破りな借金の手口

 渋沢は江戸幕府に仕えていた当時、資金的には手元不如意(てもとふにょい)で、実業界に身を投じようとしていた。といって金融の支援を期待する当てもない。そこで個人金融の方策しかないと考える。横浜で名主を務めた素封家・石川徳右衛門(とくえもん)を訪ね、4000両の借金を申し込む。

 石川「4000両の貸し出しは一向にかまいませんが、抵当物件はお持ちですか」
 渋沢「もちろん抵当物件はあります。ご心配は無用です」
 石川「どちらにお持ちで」

 いぶかる石川翁を尻目に、渋沢は石川の土蔵を指さしていわく。

 渋沢「私の抵当物件はこの土蔵の中にあります。疑うのはおやめください。私が今あなたから借りる4000両は、これをそっくり抵当としてあなた様にお預けするのです」
石川「あなたはサムライで、まだ実業界のことを知らない。借金には金利が付きます。あなたは金利を損するだけです」

 そんなことは百も承知の渋沢は落ち着いたもの。

 渋沢「いやいや、私は実業のことは分かっております。この借金申し込みはあなたには珍奇に見えたかもしれないが、あらかじめ4000両の利用権を特約するものです。将来いい商品を発見しその都度抵当物件を引き換えていく予定です。お分かりいただけましたかね」

 石川はやっと渋沢の意図が分かったので手代に一分銀(※1)で50両分80枚を運ばせ渋沢に見せていわく。(※1…江戸時代後期の銀貨の一種)

 石川「この4000両は見せただけで、また土蔵に仕舞い、貴公は借用証を書いて私に戴きたい」
 渋沢「少しお待ちください。お借りした4000両はすぐ抵当としてあなたに預けるのだから金利はできるだけ安く、願わくば100両につき1分とし、期限は半年としたい」

 渋沢はたちどころに証文を書いて石川に渡し、こういった。

 渋沢「この4000両は私が借り入れた証拠として封印だけはしておきたい。しかし、もともと通用金(通貨)ですからあなたがこの抵当物件を使っていただいて結構です」

 そして渋沢は50両を包み、80個にいちいち渋沢栄一の認め印を押して石川に預けた。

 以来、期限が来れば利子を払い、証文を書き換え、借用延期を願い出るのだった。

 石川「渋沢という男はどういう了見だろう。他人のカネに添え封印しただけで1年余り利息を払い続けている。いい商品が見つかったといって抵当物件の差し替えも言ってこない」

 石川は渋沢の真の狙いを理解することはできなかったが、以来、渋沢の実業界における信用はうなぎ上り、1年余りで1万両以上の信用借りができるようになる。なぜか。「渋沢栄一添え封印の4000両、そのまま石川徳衛門の手より流通せられて京浜の商人ら栄一をもって大大金満家と安心したればなり」。

●話し声と懐の大きさ

 渋沢栄一が客に接するとき、胸中に壁を作らず、胸襟を開いて快談するのが常だった。そして声の大きいこと、並外れで、書斎の話し声が3、4室離れた応接間でも聞こえるほどであった。そのことを一切意に介さなかった。渋沢は言う。「私になんの秘密がありましょうや」。

 人はその懐の大きさに肝を抜かれた。=敬称略
■渋沢栄一(1840~1931)の横顔
天保11(1840)年、武蔵国血洗島村(埼玉県深谷市大字血洗島=ちあらいじま)で生まれる。村でも有数の財産家だった。13歳のころ父に連れられて初めて上京する一方、単身で藍玉の買い付けに出かける。慶応2(1866)年、幕臣となり、翌3年にパリ万国博使節として渡欧、明治3(1870)年に官営富岡製糸場主任、同8(1875)年、第一国立銀行頭取。同11(1878)年に東京商法会議所(のちに東京商業会議所)会頭、同20(1887)年に帝国ホテル会長、同24(1891)年に東京交換所委員長を歴任した後、同34(1901)年、飛鳥山に転居、本邸とする。同35年に欧米視察、同42(1909)年に米実業団を組織して渡米。大正4(1915)年に渡米、同6年に理化学研究所を創立(のち副総裁)し、同9(1920)年には男爵から子爵へ。同12(1923)年の関東大震災で兜町の邸宅は消失。昭和6(1931)年11月11日没。天保以来、11の元号を生き抜いた。「青淵」の雅号は近くにきれいな淵があったことに由来する。

最終更新:6月17日(月)10時26分

THE PAGE

 

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