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渋沢栄一いくつかの小話(2)取引所は賭博? 明治政府内の大激論でもブレず

5月26日(日)16時30分配信 THE PAGE

[画像]千代田区常磐橋公園にある渋沢栄一銅像
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[画像]千代田区常磐橋公園にある渋沢栄一銅像
 「日本の資本主義の父」と称される渋沢栄一が、2024年から新しい1万円札の顔になります。江戸後期から明治、大正、昭和を生き抜いた実業家で、第一国立銀行をはじめ、日本初の私鉄である日本鉄道会社や王子製紙など約500の会社に関わった一方、約600の社会公共事業にも力を注ぎました。市場主義経済の象徴として現在の取引所の姿があるのは「渋沢のおかげ」と評価され、企業コンプライアンスが厳しくなった現代にあって、その哲学が再び注目されています。そんな渋沢の考え方や人柄が伝わるエピソードを、硬軟織り交ぜて集めました。市場経済研究所の鍋島高明さんが4回連載で紹介します。第2回のテーマは「取引所」です。

先物取引所の是非めぐり明治政府内で大論争

 明治維新の直後、先物取引の是非をめぐって明治新政府内で大激論が戦わされたことがある。司法権大判事で後に大審院院長に就く玉乃世履(たまの・せいり)が「禁止してしまわなければ庶民の賭博心を助長する恐れがある」と言って先物取引禁止を主張する。今でいえば最高裁長官に当たるほどの人物の意見だから影響力は大きい。江戸時代から続く米相場の火がかき消されそうな流れになるが、これに真っ向から反論したのが若き大蔵官僚、渋沢栄一であった。渋沢と玉乃は昵懇(じっこん)な間柄であったが、渋沢は到底禁止論を容認することはできなかった。渋沢は言う。

「人には現物の取引をするのほか、なお景気を売買したがる性分があるものゆえ、景気を売買する空相場をも、いかに賭博に類似するからとて禁止してしまってはかえって人心に悪影響を及ぼし、法網をくぐって盛んに賭博を行うに至るがごとき危険を醸す恐れがあるから、今日いわゆる延べ取引すなわち空米相場はこれを禁止せず、公許するが政治上の好方便である」

 そして数年後に渋沢は突然、玉乃の来訪を受ける。

 渋沢「なんの用で来られたか」
 玉乃「実は今日、貴公への自分の不明を詫びるためにわざわざ出かけてきたのだ」
 渋沢「それは何のことか知らぬが、とにかく面白そうだから聞こうではないか。詳しく知りたい」
 玉乃「空相場の許否に関する貴公の意見が正しいことが今になって分かった。私も公許する意見になったから、これまでの自分が貴公の意見に反対した不明を陳謝したい」
 渋沢「そうか。それはうれしい。でもどうして従来の意見を一変するに至ったのか」
 玉乃「実は政府のお雇い学者として来日中の法律顧問、ボアソナード氏に論破されたのだ」

 フランスの法律学者ボアソナード(1825~1910)は「サイコロを転がし丁半の出方によって勝負を決する賭博と空米相場は根本的に異なるものである」と説き、玉乃はとうとう自説を撤回するに至ったという。

 玉乃「初め貴公の意見に反対したものとして、この宗旨替えを貴公に申し入れ、従来の不明を陳謝しておくのが順当であろうと考え、今日訪ねてきたのだ」

 資本主義の勃興期における明治青年の気骨と爽快さを物語るエピソードである。渋沢は賭博と相場の違いをくどいほど強調する。

「世の中に存在するものを目的物として契約するのだから決して禁止するべきものではなく、サイを転がして丁半の出方によって勝負を決する賭博とは全然その根本の性質を異にす。ゆえに延べ取引としての空相場は許可してしかるべきである」(渋沢栄一著「論語講義」)

取引所が今あるのは「渋沢のおかげ」

 こうして明治政府は先物取引を公認するに至った。そして150年の歳月は流れた。証券取引所や商品取引所が21世紀の現在、市場経済時代のシンボルとして日々活動しているのは渋沢栄一のおかげと言っても過言ではない。

 明治の文豪、幸田露伴はその著「渋沢栄一伝」でこの一件に触れている。

「商業の発達に際し、即時取引にあらざる取引(先物取引)の起こるのは自然の勢いにして、これにより商業は円滑流利に行わるべきものである。……玉乃らと論議して大蔵省は大蔵省の立場として力を尽くしたのは栄一であり、かつなお一歩を進めて相場の取引は必ずしも米、油のみに限るべきではない、公債、株券の売買取引機関を設けるのも今日の急務……」

 こんな調子で市場経済論を展開、実地に移していくのだから当時は異端児扱いされたものだ。この一例を見ても渋沢が「日本資本主義の父」と呼ばれるのは当然であろう。今度1万円札の肖像に決まったのは遅きに失したとの見方もあるほどだ。

取引所竣工を記念してしたためた至言の書

 昭和の初め、東京米穀商品取引所の新しいビルが完成したとき、渋沢は竣工記念に一書をしたためた。そこにはこう書かれていた。

「成名毎在窮苦日 敗事多因得意時」(名を成すは毎(つね)に窮苦の日に在り 事の敗るは多く得意の時)

 この書は戦前の立会場に掲げられていたが、戦中、戦後の統制経済時代が終わり、東京穀物商品取引所が復活すると、初代理事長の山崎種二は「この言葉は相場に携わる者には至言である」と言って理事長室に掲げられたという。山種は「相場の神様」と呼ばれ、米や株の相場で華々しい戦歴を残した人だが、渋沢の言葉の中に相場の極意を読み取ったのである。しかしこの言葉は単に相場の極意が込められているばかりか、人生訓そのものと言えよう。
=敬称略
■渋沢栄一(1840~1931)の横顔
天保11(1840)年、武蔵国血洗島村(埼玉県深谷市大字血洗島=ちあらいじま)で生まれる。村でも有数の財産家だった。13歳のころ父に連れられて初めて上京する一方、単身で藍玉の買い付けに出かける。慶応2(1866)年、幕臣となり、翌3年にパリ万国博使節として渡欧、明治3(1870)年に官営富岡製糸場主任、同8(1875)年、第一国立銀行頭取。同11(1878)年に東京商法会議所(のちに東京商業会議所)会頭、同20(1887)年に帝国ホテル会長、同24(1891)年に東京交換所委員長を歴任した後、同34(1901)年、飛鳥山に転居、本邸とする。同35年に欧米視察、同42(1909)年に米実業団を組織して渡米。大正4(1915)年に渡米、同6年に理化学研究所を創立(のち副総裁)し、同9(1920)年には男爵から子爵へ。同12(1923)年の関東大震災で兜町の邸宅は消失。昭和6(1931)年11月11日没。天保以来、11の元号を生き抜いた。「青淵」の雅号は近くにきれいな淵があったことに由来する。

最終更新:6月17日(月)10時27分

THE PAGE

 

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