ここから本文です

渋沢栄一いくつかの小話(1)「日本資本主義の父」哲学の拠り所は論語だった

5月25日(土)19時30分配信 THE PAGE

[画像]渋沢栄一(株式会社「小林洋行」発行『フューチャーズコミュニケーション』より)
拡大写真
[画像]渋沢栄一(株式会社「小林洋行」発行『フューチャーズコミュニケーション』より)
 「日本の資本主義の父」と称される渋沢栄一が、2024年から新しい1万円札の顔になります。江戸後期から明治、大正、昭和を生き抜いた実業家で、第一国立銀行をはじめ、日本初の私鉄である日本鉄道会社や王子製紙など約500の会社に関わった一方、約600の社会公共事業にも力を注ぎました。市場主義経済の象徴として現在の取引所の姿があるのは「渋沢のおかげ」と評価され、企業コンプライアンスが厳しくなった現代にあって、その哲学が再び注目されています。そんな渋沢の考え方や人柄が伝わるエピソードを、硬軟織り交ぜて集めました。市場経済研究所の鍋島高明さんが4回連載で紹介します。第1回のテーマは「論語」です。

「商業立国」「商人の地位向上」を訴え

 渋沢栄一が新しい1万円札の肖像画に決まって、ゆかりの地は歓迎ムード、生家や渋沢栄一記念館がある埼玉県深谷市はこの朗報に大喜び、「深谷はネギと煉瓦とチューリップだけじゃない」と、「明けの大黒」の異名を持つ渋沢栄一のPRに力が入る。

作家の林房雄は、近代日本における大物経済人の足跡をまとめた「明治大実業家列伝」の冒頭に渋沢栄一を据え、こう結んでいる。

「昭和6(1931)年、92歳の高齢で逝去するまで彼が創業し、指導した事業は一千以上と言われ、晩年には特に社会公共事業、労使問題の平和的解決に力を入れた。彼の生涯の標語は『官尊民卑の打破』であり、『実業家の地位の向上』であった。三つ子の魂、百まで! ――彼の青年時代の討幕の志し―― 圧政を排し自由を求める精神は環境と地位の目まぐるしいほどの変遷にもかかわらず、九十年の生涯を貫いて輝きとおしたのである」

 渋沢は「商業立国」「商人の地位向上」を訴え続けた。日本を東洋における貿易の中心地にしなければならないと考えた。それには若い優れた人材を官界ではなく、実業界に送り込まなければならない。この点では福沢諭吉の主張と歩調を共にする。

 渋沢が晩年、特に強調するのは「道徳経済合一説」である。渋沢栄一記念館に行くと、大正12(1923)年、既に渋沢は83歳の高齢に達していたが、発明協会で行った演説の肉声を聞くことができる。道徳とソロバン(経済)は相反するものではなく、調和、両立しなければならないと声震わせながら説く。

「利」と「義」の調和、日本に植え付ける

 昔、日本では仁義道徳と利益追求は相容れないものとされてきた。だから仁義を貴ぶ武士階級は最上位にランクされ、金儲けに走る商人階級は「士農工商」の最下位におとしめられていた。明治維新後も「利」と「義」は同居できない敵同士のように思われていた。「商人と屏風はまっすぐでは立たぬ」―― 古諺そのままに商人たちは軽視されてきた。商人の地位向上を信条とする渋沢は商業道徳の徹底を強く訴え続けた。

 「利」と「義」は調和し、一つに合体できるし、そうしなければならないと、老骨に鞭を入れる渋沢。こうした信念のよりどころは、生涯の伴侶としてきた孔子の教え、「論語」にある。

「それ算盤をはじくは利である。論語を読むのは道徳である。余はこの論語と算盤との二つが相伴い、相一致しなければならぬと信ずる」

 21世紀に入り、企業のコンプライアンス(法令順守)がやかましく言われるようになって、渋沢の“出番”が増えた。経済、経営をめぐる不祥事が勃発したようなとき、この一節はよく引用される。そういえば渋沢の生家を訪ねた時、玄関に大きな銭箱と算盤(=そろばんのこと)が置かれていたことを思い出す。渋沢家は農業の傍ら大手の藍玉商人であったから銭函と算盤は必須のものであった。さらに渋沢はこう述べている。

「よく道徳を守り、私利私欲の観念を超越して、国家社会に尽くす誠意をもって獲得せし利益は、これ真正無垢の利益というべし」

 正々堂々と儲けた金で建てた日本橋・兜町の本宅は錦絵になるほど豪華な造りだった。作家の城山三郎は渋沢をモデルにした小説「雄気堂々」の中で書いている。

「海運橋ぎわの渋沢邸は、川に面した南欧風の白い洋館である。堂々とした造りで水に生えるその姿はいかにも文明開化の尖端を行く実業家の邸にふさわしかった。このころ栄一は郊外の飛鳥山(編注:現東京都北区)にも広大な敷地を持つ別荘を建て、時にそちらに出かけたりもしていた」

賭け事好きな「明けの大黒」異名の由来

 この本の中に渋沢のあだ名が出てくる。「明けの大黒」。その由来を城山は書いている。
「勝負事が好き。それもいつも粘り勝ちである。徹夜してみんながくたびれて、頭がもうろうとした夜明けごろになって力を発揮し、にこにこしながら、巻き上げる。『明けの大黒』と言われたゆえんである。若いころは一週間ぶっ続けで花札もやった。幕末、最初に洋行するときに着た中古の燕尾服は、賭け碁で手に入れたものだった」

 明治時代、渋沢のような教養と品格のある大商人のことを「紳商(しんしょう)」と呼んだ。紳商たちの娯楽の第一は花札であった。渋沢は花札がめっぽう強かった。花札だけでない、勝負事は何でも強かった。中古とはいえ、燕尾服を「賭け碁」によって巻き上げるほどの博才の持ち主であった。=敬称略
■渋沢栄一(1840~1931)の横顔
天保11(1840)年、武蔵国血洗島村(埼玉県深谷市大字血洗島=ちあらいじま)で生まれる。村でも有数の財産家だった。13歳のころ父に連れられて初めて上京する一方、単身で藍玉の買い付けに出かける。慶応2(1866)年、幕臣となり、翌3年にパリ万国博使節として渡欧、明治3(1870)年に官営富岡製糸場主任、同8(1875)年、第一国立銀行頭取。同11(1878)年に東京商法会議所(のちに東京商業会議所)会頭、同20(1887)年に帝国ホテル会長、同24(1891)年に東京交換所委員長を歴任した後、同34(1901)年、飛鳥山に転居、本邸とする。同35年に欧米視察、同42(1909)年に米実業団を組織して渡米。大正4(1915)年に渡米、同6年に理化学研究所を創立(のち副総裁)し、同9(1920)年には男爵から子爵へ。同12(1923)年の関東大震災で兜町の邸宅は消失。昭和6(1931)年11月11日没。天保以来、11の元号を生き抜いた。「青淵」の雅号は近くにきれいな淵があったことに由来する。

最終更新:6月17日(月)10時29分

THE PAGE

 

【PR】Yahoo!ファイナンスからのお知らせ

【PR】Yahoo!ファイナンスからのお知らせ

ヘッドライン