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西欧優位の起源となった「世界史の大分岐点」

5月23日(木)6時30分配信 東洋経済オンライン

前回に引き続き、モンゴル帝国の衰退から科学や産業の要を築いた近代の世界史を岡本隆司氏がひもときます(写真:Anson/iStock)
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前回に引き続き、モンゴル帝国の衰退から科学や産業の要を築いた近代の世界史を岡本隆司氏がひもときます(写真:Anson/iStock)
前回で見たように、モンゴル帝国の建設と繁栄の前提に温暖化があった。では、その前提が崩れたとき、歴史はどう動いたのか。
14世紀と17世紀に訪れた2度の世界史的な危機の影響について、『教養としての世界史の学び方』(共編著)を上梓した岡本隆司氏が解説する。

■寒冷化の再来と世界史の変貌

 14世紀以降、地球は寒冷化に向かいます。そこで起こった数々の混乱は、ヨーロッパの歴史学において「14世紀の危機」と呼ばれている現象で、とくに「黒死病(ペスト)」が有名です。ヨーロッパばかりではありません。モンゴルが被った影響も大きく、これで帝国は解体、消滅しました。ユーラシアの統合はおろか、西アジア・中央アジア・東アジアそれぞれの政権による地域内部の統治さえ、維持できなくなるのです。
 寒冷化で痛めつけられた世界のなかでも、中央アジアの立ち直りは早かったようで、ティムール朝が興起します。ティムール朝はモンゴル帝国の統治システムをほとんどそのまま援用し、遊牧民と商業民が分業しながらタイアップし、繁栄を誇りました。

 ところがこの政権も短命で、15世紀に北方の遊牧勢力に滅ぼされると、中央アジアを包含する巨大なユーラシア統合の時代は、終焉を迎えます。人類の歴史上でも、これがほぼ最後となりました。
 遊牧民・商業民・農耕民の分業と提携で広域統合を果たすのがモンゴル帝国・ティムール朝のシステムだとすると、16世紀以降、その後継政権に相当するのはオスマン帝国・イランのサファヴィー朝・インドのムガール朝などです。やや遅れて、17世紀の東アジアの清朝を含めることも可能でしょう。

 いずれも遊牧起源の人々を中心に勃興した政権ですが、複数の集団を支配する君主は、多数派を占めるには至っていません。オスマン帝国はトルコ系の君主を中心に、ギリシア人・アラブ人を統治しましたし、サファヴィー朝もトルコ系遊牧民が大多数のイラン人を支配し、ムガール朝はペルシア=トルコ系のムスリムがヒンドゥーの人々を治める形でした。
 なるほどモンゴル帝国の遺制に間違いありません。しかし大きく違うのは、それまでユーラシア史を牛耳ってきたシルクロード上の境界地域との関係が、いずれも希薄になっていることです。シルクロードの幹線を占めていた中央アジアが地盤沈下したと言い換えることもできます。

 16世紀以後はもはや中央アジアにヘゲモニーはなく、オスマン帝国もサファヴィー朝もムガール朝も、そして東アジアの明清も、海のほうにベクトルが向いていました。政権の出自は遊牧世界でも、興隆のエネルギーを得ていたのは、海からにほかならなかったのです。
■地中海とシルクロードの凋落

 それでは、そんな16世紀以降の世界をもたらす転機になったのは、いったい何か。いわゆる大航海時代です。

 寒冷化は「黒死病」をはじめとして、地中海・ヨーロッパを痛めつけました。そこからルネサンス・近代が出発します。以上は世界史の常識ですが、以下は少し非常識なことかもしれません。

 都市国家と商業資本を中心としたイタリア・ルネサンスは、シルクロードの文明と近似するアジア史の継承形態です。地中海世界がそもそもローマ・イスラームを受けたオリエントの一部でした。ローマがギリシアの分派であり、ギリシアがシルクロードの最西端に位置するシリアの分派だったからです。
 草原のシルクロードは、馬を使えば速く往来できます。地中海は船を使うことで、効率的な航行が可能です。つまりシルクロードと地中海上は点と点を結んで、ほぼ同じ役割を果たしていたわけで、両者はシリアを中継点に1本のハイウェイでつながっていました。

 ルネサンスの成果に、地球球体説の提唱や航海技術の向上があります。その知識・技術を前提として、15世紀末、コロンブスが西回りの航海に出て、アメリカ大陸を「発見」しました。こうして大航海時代が始まります。
 この大航海時代は、地中海の位置づけを決定的に変えました。世界のハイウェイとしての意味を失って、ローカル線と化したのです。イタリアが凋落したのも、そのためです。

 ちょうど同じ時期、中央アジアでティムール朝が滅び、シルクロードが地盤沈下しています。おそらく偶然ではありません。交通の幹線・世界史の舞台が海洋に変わったということです。こうしてアジア史も、海によって規制される時代に突入したのです。

 いわゆる「新大陸」のアメリカを手に入れた以降の西欧は、ひたすら近代化・強大化のプロセスをたどりました。これは2段階に分けて考えると、わかりやすいでしょうか。
 まず16世紀の大航海時代です。スペイン・ポルトガルが先鞭をつけ、各地に植民地を設けて、アメリカ産の銀でアジア物産を買いまくった時期です。インドからは綿織物、中国からは生糸や茶、といった具合で、ヨーロッパはその一方的な購買者・消費者でした。ヨーロッパは寒冷地なので、こうした産物ができなかったのです。

 担い手はやがて、オランダ・イギリスに代わります。戦国から江戸の日本で、南蛮から紅毛に交替したのを思い浮かべていただくとよいでしょう。
 さらに転機になったのが、「17世紀の危機」です。これは大航海時代の後に、火山の噴火などで訪れた世界的な寒冷・不況期を指します。世界中どこもひとしくこの「危機」に直面したのですが、そこで突出した動きをみせたのがヨーロッパ、とくにイギリスです。

 イギリスはいわゆる「危機」に対処するなかで、銃火器の採用とそれに応じた軍隊の革新・軍事革命を達成し、「財政軍事国家」を形成しました。新しい軍隊の維持運営にかかる膨大な費用をまかなうため、財政が巨大化した国家を形成したのです。
 それにとどまりません。「財政軍事国家」は民間の経済発展をも促し、加えて科学革命による技術革新を活用して、産業革命が成就しました。

 アメリカも単なる銀の供給地ではなくなってきます。アフリカから黒人奴隷を北米大陸や西インド諸島に運び、そこで収穫した綿花や砂糖などをヨーロッパに運び、ヨーロッパから鉄砲や綿布などをアフリカに持ち込む三角貿易です。イギリスはこの貿易でアジア物産購入の費用を捻出したわけで、グローバルな世界経済はすでに形成されています。
 やがて軍事革命による植民地征服と産業革命による工業製品輸出で、アジア貿易も黒字に転じました。19世紀は西洋の世界制覇の時代となります。

■近代西洋史観と現代

 以後の近代史・世界史は、世界の西洋化であって、現代のわれわれにも直結する歴史です。「17世紀の危機」を含む地球の寒冷化が、その出発点に位置していました。

 産業革命以後、機械制工業と化石燃料の利用が普及し、それは今も続いているので、気候変動が及ぼした歴史的な影響は、われわれには感知しにくくなりました。
 季節・気温の変化にともなう生態環境の条件、それがもたらす生産・流通のサイクル、社会のありよう、いずれもそうです。

 そもそも科学革命から産業革命におよぶ近代化とは、ヨーロッパによる自然征服・寒冷化克服のプロセスでしたから、当然かもしれません。

 近代の欧米が世界を制覇したことで、その制度・ルール・観念がグローバル・スタンダードになり、今日に至っています。

 そのため「世界史」といえば近代西洋史観が中心になり、アジアがヨーロッパの「ネガティブ形態」としてしか捉えられなくなりました。気候変動と生態環境に応じてアジアが築いてきた多くの史実は、現代人が理解しがたいものになってしまったのです。
 イタリア・ルネサンスが西洋近代の源流だとしますと、それはアジア史の分派ですので、西洋をみるにあたっても、アジア史に対する正確な理解が必要になるはずです。しかし現代の西洋中心史観では、必ずしもそうはなっていません。

 以上に見てきたとおり、アジア史は軍事・経済・政治の各セクターをそれぞれ異なる種族・集団が担うシステムをとっていました。互いに異なる言語・習俗・技能でまとまった遊牧民・商業民・農耕民が、たがいに分業しつつ、提携していたのがアジアだったと言えます。
 気候変動に左右される生態環境から、多元的・複合的な制度を導入し、多種多様な集団が共存できる体制を作り上げてきたのです。

 それに対して、近代の欧米は国民国家をスタンダードにしているので、均質一体化の体制が前提です。アジア史で通例の多元性・複合性が欠如していて、その欠如した構造を自明の前提として、現代の歴史学・社会科学が組み立てられています。最新の「グローバル・ヒストリー」でも、アジア史・世界史が十全に理解できないゆえんです。
 現代の新興国の台頭に対しても、こうした視点は重要だと思います。いわゆる新興国は、中国にせよインドにせよ、かつてアジア史を構成してきた国家です。

 西洋化・近代化を経たといえ、その基盤には歴史的な多元的・複合的な体制があるはずで、そこを見誤らないことが変転常ない現代世界に向き合うのに不可欠ではないでしょうか。
岡本 隆司 :京都府立大学文学部教授

最終更新:5月23日(木)6時30分

東洋経済オンライン

 

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