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32歳「元専業主婦」の彼女がのめり込む書く現場

5月21日(火)5時20分配信 東洋経済オンライン

住居を定めず、海外を飛び回りながらライターとしての仕事をこなす伊佐知美さん。何が彼女を海外への旅へと突き動かすのか?お話を聞いた(筆者撮影)
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住居を定めず、海外を飛び回りながらライターとしての仕事をこなす伊佐知美さん。何が彼女を海外への旅へと突き動かすのか?お話を聞いた(筆者撮影)
これまでにないジャンルに根を張って、長年自営で生活している人や組織を経営している人がいる。「会社員ではない」彼ら彼女らはどのように生計を立てているのか。自分で敷いたレールの上にあるマネタイズ方法が知りたい。特殊分野で自営を続けるライター・村田らむと古田雄介が神髄を紡ぐ連載の第63回。
 伊佐知美さん(32歳)は、フリーランスのライター、フォトグラファーである。

 最近まで、ウェブメディア『灯台もと暮らし』の編集長として5年間執筆編集活動を続けた。
また、2017年には都会から地方へ移住して生活をしている女性たちの様子を描いた『移住女子』(新潮社)を上梓した。

 バリバリ働く伊佐さんだが、仕事のスタイルはとても変わっている。国内外をつねに旅しながら、記事を制作しているのだ。

 彼女が旅の途中に海外で撮影した写真は色彩豊かでハッと胸を打たれる作品が多く、フォトグラファーとしての評価も高まっている。

 世界一周をしながらの写真と文章を掲載しているnoteは実に4万4000人以上にフォローされる人気のページになっている。
 伊佐さんが、なぜそのようなスタイルで仕事をするようになったのか、日本に滞在している短い期間にお話を伺った。

■転校ばかりの幼少期

 伊佐さんの出身は新潟県の見附市だったが、石油関係の会社で働く父親が転勤族だったので、幼い頃から頻繁に引っ越しをした。

 最初の引っ越しは北海道から東京の田無市(現・西東京市)へ、そして小学1年生のときには中国・上海の日本語学校へ転校した。

 「当時まだ上海は発展途上の都市でした。空港を降りたら小さい子がたくさん『お金をちょうだい』って集まってきて、車に乗った後もフロントガラスの上に乗ってきました。
 その様子を見て、ものすごいカルチャーショックを受けたのを覚えています」

 学校は、もともと転勤族の子どもが多いため出入りが激しかったが、それに加え阪神淡路大震災の避難で短期的に入学する人もいたので、毎月歓迎会とお別れ会がある慌ただしい環境だった。

 「出会ってもすぐ別れちゃう。ウェブが普及していない時代だったから『いつかどこかでまた会えたらいいな』って願うだけでした」

 日本にいた頃から図書館に住みたいと思うほど本が好きだった。中国では日本語の本を入荷しているお店は町に数軒しかなかった。そのお店で1カ月に一度、『なかよし』や『りぼん』を買ってもらうのがとても楽しみだった。
 「そんな生活を続ける中、いつしか本の翻訳の仕事に憧れていました。『かっこいい!!』って思いました。

 上海での経験は原体験として今も胸に強く焼き付いています。海を超えたら言語も文化もまるで違う国があるんだって気がつきました」

 小学4年生からは日本に帰国して、新潟に住むようになった。「中国帰り」として目立ったため、深刻ではないまでもイジメも経験した。

 「そういう環境でしたから『成績はいいほうが何かと好都合だろう』と思って勉強は頑張りました。嫌な性格ですね(笑)。元来、活発な性格なので学級委員や生徒会も積極的にやりましたね」
 ただ地元の閉塞感が少し苦手だったので、高校は地元から離れた場所に通った。

■父に頭を下げていざ留学へ

 大学は、海外に対する憧れがあったので『国際』がつく学科に行きたいと思った。

 そういう大学は地元にはなかったし、純粋に都会の生活に憧れたのもあって横浜市立大学の国際総合科に進学した。

 「大学に入ったら、入部したダンス部が楽しすぎて『留学したい』という優先順位が下がってしまいました。

 それでも20歳のときに、カナダのバンクーバーに語学留学しました。でも、貯めていたお金が足りなかったので父親に、
 『1年かけて返すから貸していただけませんか……』

 と言ってお金を借りて行きました」

 大学で語学を習っていたものの、留学先ではあまりうまくコミュニケーションを取ることができなかった。

 また3月のカナダはとても美しかったが、とても寒かった。寒いのは苦手で、残念ながらあまり満喫できなかった。

 「『飛行機に乗って海を越えたら違う自分になれる!!』

 という期待があったんですけど、

 『なれないんだ……』

 と知り軽く挫折しました。大学時代の海外経験は卒業旅行で友達と韓国やバリなどへ行ったくらいですね」
 卒業後も「留学したい」という夢はあったが、資金は全然足りず。また家族が病気で倒れたこともあり、まずは普通に就職することに決めた。

 「出版社で編集者になりたいという夢があったんですけど、全部ダメでした。入社させてくれた会社は『三井住友カード』でした。港区の高層ビルにスーツを着てヒールを履いて出勤していました」

 営業職で、クレジットカードはどういうものか、行員さんに勉強会をするなどの仕事をしていた。そして会社員として働いているときに、一度結婚をした。
■「私はこれでいいのか?」

 「ハワイに新婚旅行に行きました。チルで(くつろいで)働いている人たちを見て、『なんで私は週5で働いているんだろう。電車に乗って毎日同じ場所に通って。3年後も5年後も同じいすに座っているの?』って感じました。それにまだ出版社に行く夢も捨てられませんでした」

 旅行中にいったん会社を辞めようと思った。新婚旅行から帰ってきた月に、辞表を出した。

 「今思えばとてもいい会社でした。仕事も楽しかったです。福利厚生もちゃんとしていました。もう二度と入れてもらえないでしょうね(笑)」
 24歳でいったん専業主婦になった。

 ハローワークに通い失業手当てをもらいながら、転職活動をはじめた。

 「当たり前ですけど前職と近い業種からしか転職のオファーが来ないんです。出版社への道は厳しかったです。アルバイトとして出版社で働くという手段もあったのですが、当時は『正社員じゃないと嫌だ』というプライドがありました」

 そして転職エージェントに登録して見つけた転職先が講談社だった。ただし編集職ではなくアシスタント職だった。広告主に見本誌を送ったり、色校正をしたりと総務的な仕事をする部署だ。
 「いったん出版社に入ったら、社内異動で編集にいけるんじゃないかと思ってました。でもそんなことは全然なかったです(笑)。世の中甘く見てましたね」

 2014年2月、それならばと講談社で働きながらウェブでライター職を始めようと決めた。

 「記事1本500円の原稿料の媒体を見つけて、履歴書を送ってOKですって言われました。その媒体で記事を書きためてポートフォリオ(作品集)にして、1本1000円の媒体に送りました。そして1000円の媒体で書きためて、2000円のところに……と徐々に原稿料の高い媒体へ移行しました。履歴書にはちゃっかり『講談社に勤務しています』と書いたりしてました(笑)」
 9~18時会社で仕事をして、その後ウェブメディアのミーティングをし、土日で取材をして原稿を書く、多忙な日々だった。

 そんな生活を半年続けているうち、1本1万~2万円のウェブメディア媒体で仕事ができるようになった。

 また、そこから派生して雑誌の記事の仕事も来るようになった。

 「毎月20本書けば新卒の給料くらいの額にはなるなと思って、講談社を退社しました」

■出来たての会社で編集長に

 兼業ライターとして活動していときに、会社を立ち上げてメディアを作っていきたいという人たちに出会った。
 「その人たちに、

 『今から立ち上げる媒体の編集長をやってくれないか?』

 と頼まれました。『海外旅行がしたい!!』という気持ちはあったんですが、その人たちが本当に好きだったので、引き受けることにしました」

 講談社を退社した翌日から、株式会社Waseiという会社に所属することになった。

 「社員といっても、私が1人目の社員です。ほっといたら仕事はありません。とにかく媒体をゼロから立ち上げました」

 伊佐さんが27歳、社長が25歳、22~23歳の社員が2人という若い会社だった。
 みんなで合宿をして、3日3晩どんな媒体にするのか話し合った。

 「やっぱり自分たちがうらやましいと思う人を取材したいと思いました。

 それはどんな人か考えたところ

 『自分の暮らしを自分で選んでいる人』

 でした。そしてその答えは地域にあるんじゃないかと考えました。地域に取材に出向き、自分の意思で地方に住む同世代の若者を取材しました」

 そうして2015年1月1日から地域に住む人たちに注目するウェブメディア『灯台もと暮らし』の運営が始まった。伊佐さんは編集長に就任した。
 「ほかの媒体で書いていた原稿料を全部『灯台もと暮らし』につっこみました。

 徳島県の神山町、島根県の海士町、岩手県の遠野市などを取材しました。自費で取材をしていたら、途中からスポンサードとして『一緒に特集を作りたい』と言ってくださる人が現れ、お金が生まれるようになりました。

 とにかく当時は、全員で必死に記事を書いていましたね。私としては大人の文化祭をしているような感覚でした。移動も深夜バスだったり、たまにめちゃくちゃつらかったりしたんですけど、でもめちゃくちゃ楽しかったです」
 『灯台もと暮らし』の活動とは別に、個人のフリーライターの仕事を引き受けたり、「編集女子が私らしく生きるためのライティング作戦会議」と銘打って、連続イベントを開催したりもした。

 「ウェブライティング作戦会議」「旅コンテンツ作戦会議」などテーマを毎月変えつつ回を重ねた結果、イベントに参加する人が増え、2015年3月からはオンラインサロン『編集女子』の運営をはじめた。

 「そのあたりから、ありがたいことに「人生デザイン U-29」(NHK)などのドキュメント番組をはじめ、テレビ、ラジオなどに出演させていただく機会が増えました。
 仕事としてはうまくいっていたのですが、忙しい日々を続けていたためメンタルと体の調子を崩してしまいました」

 ずっとつらくて、涙が止まらなくなってしまった。円形脱毛症になり、生理も止まった。でも目の前には、仕事も取材もまだまだたくさんある。

 「定例の合宿をしてたときにボロボロ泣いちゃったんです。そしたら、みんな『休んだほうがいいよ』って言ってくれました。なんとか10日くらいなら休めそうだったので、2015年末に1人でハワイに逃げました」
■ハワイへ行くと海外への思いが再び募り…

 本来新しい国に行くのが好きだったのだが、あまりに疲れすぎていたので、新婚旅行で訪れたため、すでに道などがわかるハワイを選んだ。夫が商社マンでマイルをたくさん貯めていたので、そのマイルで旅行ができるから、というのもあった。

 「ハワイに行ったら、それでまた海外に出たいという気持ちがわいてきました。『世界一周したい!!』と思ったんですが、そこまでやるなら会社は辞めなければならないと思いました」
 しかし、株式会社Waseiの社長は、

 「伊佐さんが会社をやめなくてもいい道を探しませんか?」

 と言ってくれた。

 それまでもベトナム・ホイアン、シンガポール、タイの島などに旅行に行き、並行して仕事をしたことがあった。

 「Wi-Fiさえ拾えればなんとか仕事になるという実感はありました。社長の言葉に甘えて、株式会社Waseiの身分のまま8カ月の旅に出ることにしました」

 ただ行きっぱなしではなく3カ月に1回は仕事の都合で帰国することにした。まずは成田を出発して「クアラルンプール→インド→ロンドン→フィンランド→ヘルシンキ」というルートをたどる旅に出た。
 出発前に新潮社から『移住女子』の執筆依頼が来た。そこで国内にいる間に、取材をしまくり、その写真と音源を持って旅に出た。写真と音源を元に、海外で記事を書き上げる算段だった。

 「夫を日本に置いての3カ月長期旅行です。あまりにも身勝手だから、出発する前に、夫に

 『離婚するという選択肢もあるかもと思っている』

 と声かけました。すると夫は

 『俺はいちばんの理解者でいたいし、応援したい。帰ってくるのを待っていたい』
 と言ってくれました。

 『ありがとう!!  じゃあ行ってきます!!』

 と言って晴れ晴れとした気持ちで旅に出ました。でも、帰ってきたときにはやっぱり関係性は保てていなかったですね。結果的に離婚しました」

 正直、仕方がないと思う部分はあった。メディアの仕事を続けるうちに、会社で堅実にキャリアを重ね続ける夫と、折り合いがつかなくなってきているのも事実だった。

 それまでは夫と共に住んでいたが、離婚後は家を出た。
■「ホームレス」状態で旅路へ

 部屋にある自分に必要なものだけ集めたら段ボール3箱だけになったので、それは実家に送った。残りはスーツケースとリュックに詰めて、後は処分してくれるよう頼んだ。

 「旅の一時帰国中の出来事ですから、

 『家なくてもいいか?』

 って思っちゃったんです。住民税は払わなければならないと思って実家を本籍にしましたけど、自分名義の家はありません。いわば、ホームレス状態です(笑)」

 そして傷心のまま、オーストラリアへの片道切符を取り旅立った。
 伊佐さんの旅のスタイルは、あまりひとところに落ち着かない。3日に1度は違う町や国に行くのは当たり前だ。

 「ルートフェチなんです。『チェコのプラハから、オーストリアのウィーンにバスで3000円で行ける』とか知っちゃうと、『そんなに安いなら乗らなくちゃ!!』ってなっちゃうんです。旅好きの人にもあきれられます」

 そんな目まぐるしい旅をしながら、日本から持ってきた仕事をバリバリとこなす。

 ただミャンマーやタイなど、Wi-Fiの弱い国では写真を送受信するのが難しい。電話もとぎれとぎれになる。移動の間をぬって細切れの時間を作るので、長文のルポを書くのはなかなか苦労する。
 「海外にいるならやっぱりご飯も食べたいし、現地の空気も味わいたい。それでも仕事もしなくちゃ!!  って意外に忙しいんだなって学びました。

 クロアチアのドブロブニクで、青森のこぎん刺しの記事を書いていたりすると、わけがわからなくなってきました。なんだかドブロブニクにも青森にもどっちにも失礼な気すらしちゃって。

 結果的に、しんどいこともやっぱり多かったですね。

 『ノマド』

 『リモートワーク』

 『アドレスホッパー』
 などの言葉はもてはやされています。やってみたい人もいると思います。

 でも実際に

 『自分にできるのか?』

 『幸せになれるのか?』

 と考えると、なかなか難しいですよね。

 私は『毎日カバンからシャンプーとリンスを出す日々』『チェックアウトで10時にホテルを出る日々』にちょっぴり疲れてしまいました」

 夫と別れてから2018年2月まではずっと家なしで生活をした。

 そこから世田谷区で一軒家を借りて仲間5人でルームシェアをしてみたが、旅人ばかりであまりに不在が多いため一旦解散することになった。
 「そしていろいろ考えた結果、2019年の3月いっぱいで株式会社Waseiを退社しました。今年(2019年)の4月からは初めての完全なフリーランスになっています」

■「海外」への強い思いは変わらない

 『これからどうされていくつもりですか?』

 と聞くと、伊佐さんは間髪をいれずに

 「海外に行きます」

 と答えた。どんなにつらくてもそれでも海外に行きたいという強い意思を感じた。

 「それでも海外は行きたいです。それだけは、捨てられないですね。小学校のときの原体験が響いていると思います」
 そのうえで、これから何をしようか、どのような仕事をしようか考えているという。

 「まずは語学留学に行きたいと思っています。今はインタビューできるほどは英語力がないので、英語力を上げたいですね。できたらスペイン語も学びたいと思ってます。SNSもバイリンガルでやれたらいいと思います」

 SNSや電子書籍では読者を日本人に限らないようにしている人が増えている。

 伊佐さんも、世界の人に読まれるルポを書きたいと思う。
 「旅人もライターも20代の人たちがどんどん現れています。その中で、自分がどう生き残っていけるかと考えたときに、このライフスタイルで仕事をする以上、『世界に発信ができないなら私の存在意義はないかな?』と思ったりしてます」

 具体的には、伊佐さんは近い将来、旅で実際にあったことを盛り込んだ、旅小説を書きたいと思っている。

 また、旅をテーマにした雑貨の作成にも着手している。

 「例えば今ペルーの布でスカートを作っています。みんなが旅に行きたくなるような、旅の要素を暮らしに取り入れたくなるような、商品が作れたらいいですね」
■疲れていても仕事をしたい

 伊佐さんはインタビュー中、時折

 「疲れました」

 「休みたい」

 などと弱気なことを口走るのだが、その後すぐこれからやりたいことを生き生きと話し始める。

 たしかに楽しそうなのだけど、今よりも忙しくなりそうなことばかりだ。

 「心はやすらぎを求めているんですけどね(笑)。いつの間にかバリバリ行動しています。いつも心と言動が一致しないんですよね」

 伊佐さんには、くれぐれも体だけは大事にして、これからも僕たちがなかなか行けない国々を回り、国内外に向けてさまざまな発信をしてほしいと思った。
村田 らむ :ライター、漫画家、カメラマン、イラストレーター

最終更新:5月21日(火)5時20分

東洋経済オンライン

 

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