ここから本文です

54歳「京大中退」の彼が漫画家人生を選んだ理由

5月10日(金)6時00分配信 東洋経済オンライン

漫画家・村上たかしさんになぜ漫画家になったのか、そしてギャグ漫画から一転、ストーリー漫画『星守る犬』を描くに至ったのかを聞いた(筆者撮影)
拡大写真
漫画家・村上たかしさんになぜ漫画家になったのか、そしてギャグ漫画から一転、ストーリー漫画『星守る犬』を描くに至ったのかを聞いた(筆者撮影)
これまでにないジャンルに根を張って、長年自営で生活している人や組織を経営している人がいる。「会社員ではない」彼ら彼女らはどのように生計を立てているのか。自分で敷いたレールの上にあるマネタイズ方法が知りたい。特殊分野で自営を続けるライター・村田らむと古田雄介が神髄を紡ぐ連載の第62回。
 漫画家、村上たかしさん(54歳)の代表作品の1つが『星守る犬』だ。

 自然豊かな山中に放置された、朽ち果てた自動車の中から男性の遺体が発見された。男性の横には寄り添うように1頭の犬の遺体があった。彼らはどのような軌跡を経て、その場所にたどり着いたのか?  厳しい現実を、優しい目線で描いたストーリー漫画だ。
 作品は話題になり、瀧本智行監督、西田敏行主演で映画化され東宝系で公開された。

 『星守る犬』はストーリー漫画だったが、村上さんはこの作品以前はギャグ漫画を描いていた。デビュー作である『ナマケモノが見てた』は、当初京都大学に通いながら連載していたという。

 村上さんはなぜ漫画家になったのか。そして『星守る犬』を描くに至ったのか。広島駅近くの喫茶店で話を聞いた。

■母親姉妹の子供たちが入り乱れる環境で育てられた
 村上さんは大阪の此花区で生まれた。

 「此花区は少しやんちゃな地域でした。近所の人は町工場や商店街で働いている人が多かったですね。そんな地域で幼少期を過ごしました」

 村上さんの父親は、外で女性を作りほとんど家には帰ってこなかった。

 母親は4姉妹で全員、長女が経営する美容室で働いていた。姉妹それぞれの子供たちが入り乱れる環境で育てられた。

 村上さんの父母は、村上さんが小学5年生のときに正式に離婚した。
 「父親は雑誌のフリーライターが本業だったみたいですけど、アイデアグッズの販売もしていました。例えばホルムアルデヒドや接着剤を混ぜ合わせた芳香剤を売ってました。それをまくと部屋が“新築の香り”になるという商品でした。姉妹商品で“新車の香り”というのも売ってましたね。どう考えても、インチキ臭い商品です(笑)。

 そんなハードな環境でしたけど、小さい頃から勉強はできました。関西で有数の中高一貫校に進学しました。実家から学校のある神戸まで片道1時間かけて通いました」
 クラスにはさまざまなグループがあった。野球部に入っている人たちのグループ、ファッションに敏感な人たちのグループ、などなどだ。村上さんは、面白いことを見つけて楽しむグループに入っていた。

 「男子校ならではの、やりたい放題のグループでした。ギャグのセンスは、その時期の友達からもらいました。特に田村って友達は笑いの神様が微笑んでいるような男でした」

 ある日、体操服に着替えていると田村さんが「ギャーッ」っと叫んだ。「どうした?」と聞くと「スズメバチに肛門を刺された!!」と田村さんは訴えた。
 「『おおそうなんや!!』って見てみると、モコモコモコって肛門が盛り上がってくのが見えました。田村はベシャリも立つし本当に面白いやつでした」

 『ナマケモノが見てた』の動物学級に登場する、ゾウの田村、コアラの高山、ワニの三宅の名前は中高時代の友達から引用した。

 友達と遊びつつも、授業ではしっかりと好成績を収め、大学受験は現役で京都大学の経済学部に合格した。

 「父親が不安定な仕事をして苦労しているのを見ていましたから、僕は安定した仕事につこうと思ってました。ネクタイを締めてインテリジェントビルに通って、昼休みは名札を首に下げて外に出るようなスタイルに憧れていました」
 ただ、大学受験の前後から、実家の経済状態が怪しくなってきた。

 「親からは『入学金と前期の授業料はなんとか納めたけど、そこからは自分で何とかしてくれ』と言われました」

■学費は楽して稼いだお金で払いたかった

 下宿するお金もなかったので、実家から大学に通った。食費も定期代も自分で稼がなければならない。

 家庭教師のアルバイトを週に3日入れた。それだけだと身体がなまるのでアクションショーのアルバイトも入れた。仮面ライダーやウルトラマンの中に入り、各地でヒーローショーに出演した。
 家庭教師で月8万円、アクションショーで月2万~3万円ほど稼いだ。

 「大学の授業料は半期12万6000円くらいでした。節約すれば払えない額ではないですが、やっぱり腑に落ちませんでした。周りの人たちは、そんな苦労はまったくせずにキャンパスライフを謳歌してるわけです」

 アクションショーなどで苦労して稼いだお金で学費を払うのは嫌だと思った。楽して稼いだお金で払いたかった。

 「そこで漫画を描いて稼ごうと思いました」
 小学校時代には絵画教室に通っていたし、中高時代の絵画の成績は悪くなかった。

 ただし、漫画家になるための専門的な努力はいっさいしていない。

 「ずっと漫画を描いてる人に、素人が勝負を懸けにいくわけです。きちんと作戦を立てないと勝てません」

 まずは、販売されている雑誌ほとんどに目を通した。どの雑誌に応募するか考えたとき、自分と同年代に発信している雑誌のほうが戦いやすいだろうと思った。逆に、少年誌や年配向きの雑誌で素人が戦うのは難しい。
 吟味した結果、『ヤングジャンプ』『ビッグコミックスピリッツ』『ヤングマガジン』の3誌に絞った。

■半期に1回賞を取ればなんとかなる! 

 「基本的な練習を積んでいないので、人間を描くと明らかに劣っているのがバレるんです。だから動物のキャラクターでいこうと思いました」

 最初に描いたのは『ブレーメンの漫才師』という漫画だった。

 ブレーメンの音楽隊のパロディで、動物たちが漫才師を目指して

 「レッツゴー3匹や!!」
 と大阪に行く物語だった。その漫画を、『ヤングジャンプ』の賞に応募した。

 「それがいきなり賞を取りました。佳作で賞金が10万円もらえました。大学の授業料、半期分の金額です。半期に1回賞を取れば何とかなるぞ!!  と思いました」

 味をしめて、再び応募したのだが今度はカスリもしなかった。

 慌てて新たな作品描いて応募すると、次は再び佳作を受賞することができた。

 「大学2年生の後期になって『キウイが見てた』という、ショートショートをつなぎ合わせた漫画を描きました。『ナマケモノが見てた』の前身になる作品ですね。これが準入選に選ばれて20万円もらえました。これで3年生分の授業料は稼ぎました」
 準入選を取ったので、作品は『ヤングジャンプ』の増刊号に掲載されることになった。アンケートによる人気順位は3位という好成績だった。

 学校も無事進学し3年生になった。3年生からはゼミに入り、専門課程の授業が始まる。

 「実はそもそも経済には興味がなかったんですよ。だから専門課程の授業が始まったら、全然わからない。授業に出るのが苦痛でした」

 そんな折、集英社の『ヤングジャンプ』編集部から電話がかかってきた。「一度、編集部に来ないか?」と誘われた。
 「当時の『ヤングジャンプ』の編集部は、『ここはヤクザの事務所か?』っていうくらい怖い顔の人ばっかりでした。編集部全体がタバコの煙でモクモクしてました」

 編集者は村上さんに

 「どうするんや?  漫画描くんか描かへんのか?  描くんやったら、夏に5回の集中連載を用意しておく」

 と告げた。

 「『ヤングジャンプ』に5回の連載って、ごっついですよね。面白そうだと思い『やります』と答えました。そこが僕の漫画家としてのスタートラインです」
 『ヤングジャンプ』本誌に掲載された、5回の短期集中連載の評判はよかった。編集部の中でも村上さんの作品をプッシュしてくれる編集者がいた。
「これは面白い漫画だ。絵はめちゃくちゃだけど、連載すべきだ」

 と言ってくれた。

 そして正式な連載が始まることになった。

■1週間ほぼ漫画のことばかり考える4年間

 「『連載が始まるので』と言ってゼミはやめました。迷惑がかかりますからね。学校も休学しました。学籍は置いていたので、漫画家がダメだったらまた戻ればいいやと思っていました」
 はたして『ナマケモノが見てた』はヒットし、連載は4年続いた。単行本も全11冊発売された。『ナマケモノが見てた』の連載中に、自主制作の映画サークルを作り活動した。

 「最初は文化の潮流を作るんだ!! って言ってたんですけど、集まってくるのはポンコツばっかりでした(笑)。最後は旅行サークルになってました。そのサークルで妻と知り合いました。

 週刊漫画誌の連載はすごく疲れました。1週間ほぼ漫画のことばかり考えてました。ギャグって爆発を繰り返しながら推進力を得るエンジンみたいなところがあるんです。毎週毎週爆発を繰り返すうちに、エンジン自体にガタがきて壊れてしまうんです。
 あまりに疲れたとき、編集部に『1カ月だけ休みをあげる』って言われて休んだんですけど、休んでも全然リフレッシュできませんでした」

 連載が終わったのは25歳のときだった。ちょうどその年に結婚した。

 「結婚した瞬間に無職になりました。大学に復学しようと思い、京都にマンションを借りて2人で引っ越しました」

 久しぶりに学校に行くと、ゼミの日系3世の先生はアメリカに帰っていた。4年も経っているので、知っている人は誰もいない。経済はもともと苦手だ。すぐに通うのがつらくなった。
 「学校に行ってくるわ」

 と出かけるのだが、鴨川に行って一日中寝転がって家に帰った。

 「嫁に『学校行ってる割にどんどん日焼けしていく』って言われました。『実は復学したものの、授業が全然わからへんのや』というと『卒業しても新卒の採用があるわけでなし。だったら漫画家としてやっていけばいいじゃん』と言ってくれました」

 漫画家として再起し、『ヤングジャンプ』で『天国でポン!』を1年間連載した。

■ナンセンスギャグ漫画を超えた世の中に…
 その後『ナマケモノが見てた』の続編である『ナマケモノがまた見てた』の連載を始めた。連載の途中で、阪神大震災と地下鉄サリン事件が起きた。

 「驚きました。とくにオウムの事件にはかなりのショックを受けました。麻原彰晃のお面をかぶって踊ったりしてる人たちが、あんな恐ろしいものを作ってテロをしていたって……ナンセンスギャグ漫画を超えていると思いました。

 世の中が正義、理想論、正しいことを言う人が強いときは、それを揶揄する形でギャグが成り立つんです。でもその地盤がグラグラと揺らいでしまった。ナンセンスギャグを続けていくのは難しいなと思いました」
 『ナマケモノがまた見てた』の連載が終わり、『ヤングジャンプ』での仕事がなくなった。『ヤングジャンプ』の専属契約をやめ、竹書房やぶんか社などで漫画を描いた。

 『ナマケモノがまた見てた』が終わって3年が経った頃、ぼちぼちまたうちで描きませんか? と『ヤングジャンプ』から声がかかった。

 「編集には2案あると言いました。1つは今までどおりのギャグ漫画で、もう1つは起承転結ならぬ『起承転“泣”』の作品。物語を紡ぐ、優しい4コマ漫画です」
 編集者から後者が選ばれ、1999年から『ぱじ』の連載が始まった。

 両親を亡くした孫娘ももと、彼女を育てる祖父茂吉の日常を描いた4コマ漫画だ。

 「『人とのつながり』や『愛』って大事なんだよ、という基本を立て直す漫画を描こうと思いました。そこがしっかりしていてこそ、またやんちゃなギャグを描きうる時代が来ると思いました」

 『ぱじ』の評価は高く第4回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞した。

 連載時もアンケートの評価はよかった。ただ、単行本があまり売れなかった。その頃から、人気があっても単行本が売れない漫画は終わっていくという流れになっていた。
 そしてその頃はリーマンショックの影響もあってか、雑誌がパタパタと終わっていく時代でもあった。

 「仕事がなくなりました。子どもは、上の子が小学5年生、下の子が3歳でした。

 それまでは大阪に住んでいたんですが、嫁の実家である東広島市に引っ越そうと思いました。たびたび里帰りしていたんですが、帰るたびによくなっていく街でした」

 そもそもは単純な田舎町だったが、広島大学が移転してきてからはインフラが整備され始めた。本屋ができ、喫茶店ができ、シネマコンプレックスができた。
 発展はしているが、里山としての自然はしっかり残っていて、タヌキ、キツネ、キジなどの動物もいた。

 少子高齢化が進む現在の日本で、若年層の人口が増えている珍しい地域だった。

 「これは子育てにピッタリな地域だなと思って引っ越しました。大阪に住むより家賃などはずっと安くなりました。

 しかしその頃が漫画家としてはいちばん厳しい時代でした。『本当にあった愉快な話』(竹書房)の月1連載しか仕事がない時期がありました」
■長いの描いてみてください。ギャグなくていいんで

 2007年には、ハローワークに仕事を探しにいった。大学は結局中退だし、漫画家はほぼ職歴として評価されない。40代の村上さんに、仕事はまったくといっていいほど見つからなかった。

 「そんな中見つけた仕事が、メダカの選別でした」

 東広島市はメダカの生産で有名だ。生まれたてのメダカを選別していく仕事があったので、応募した。

 「でも『目が悪いからダメです』って断られました。ああ、ほんとに仕事ないんだなと認識しました。それから各誌に仕事ないですか? と営業をかけました。そんな中拾ってくれたのが、双葉社の『漫画アクション』でした」
 『漫画アクション』で始まった『ぎんなん』はあまり人気にはならず2巻で終わってしまった。担当編集者は村上さんに

 「今回は終わりますが、村上さん、ストーリー漫画描いてみませんか?  8ページでは描き切れないことがあると思います。長いの描いてみてください。ギャグなくていいんで」

 と言った。

 「ストーリー漫画を描くなんて考えもしませんでした。ストーリー漫画っていわば、漫画の王道ですよね。そもそも学費を稼ぐために『どうやったらちゃんとした人に勝てるか?』という変則的な形で始めましたから。ストーリー漫画が描けるとも思っていませんでした」
 村上さんは

 「僕に、ストーリー漫画が描けますかね?」

 と尋ねた。編集者は

 「描けますよ」

 と答えた。

 「それならば描こうと思いました。そして、描いたのが『星守る犬』でした。

 『星守る犬』は大阪に暮らしていた頃に体験した、あるエピソードが基になっています」

■印象に残っていた電光掲示板のあるニュース

 梅田1丁目に建つ大阪マルビルには、かつて電光掲示板が設置されていた。電光掲示板には定期的にその日に起きたニュースが流れていた。
 ある日、村上さんがビルを見上げると

 『廃棄車両の中に男性の遺体 足元には犬の遺体も』
というニュースが流れた。

 「そのニュースがずっと印象に残っていたんですよね。電光掲示板のニュースですから、文字数は少ないわけです。少ない文字数で書くなら『廃棄車両は盗難車』でも『男性の死因は不明』でもいいのに『足元には犬の遺体も』と書いた人の気持ちが伝わったんでしょうか? 

 その後東広島市の自然が豊かな場所に引っ越してきたとき、もしこの中の野原の中に廃棄車両があってそこで亡くなったとするなら、その最期は幸せだったんじゃないかな? と思いました。そこには男性と犬の、誰にも邪魔されない純粋な時間があったはずです。
 ストーリー漫画を描くことになって、ふとこの事件を思い出しました」

 掲載されると、大きな反響を呼んだ。掲載された原稿の枚数では、単行本1冊には満たない量だったので、もう1話書き足して出版することになった。

 表紙は、一面のひまわり畑の中に、ハッピー(犬)がいるという印象深い表紙になった。

 「本を作る前に書店員さんに忌憚のない意見を聞かせてくださいと言ったら、『オッサンの絵はいらん』って言われたんです(笑)。あまりに忌憚のなさすぎる意見ですけど。それで表紙はひまわりと犬だけにしました」
 作品は大きな話題になり、すぐに映画化されることにもなった。そんなとき、すでに縁を切っていた父親から電話がかかってきた。

 父親は

 「今度作品が、映画になるらしいな。知ってるか知らんが今、ワシ作詞家をやってるんや。主題歌をワシに任せてみいへんか?」

 しかも歌を歌える犬がいるので、歌わせたいとも言われた。

 「これはらちが明かないなと思って、

 『もう主題歌は平井堅が歌うことに決まってんねん』

 って言いました。すると
 『え?  何犬が歌うんだって?』

 って答えが返ってきました(笑)。

 これはダメだって思いましたね。

 父親は面白いのは面白いんですけどね。あんまり近寄ってしまうと実害があります。だから今は極力関わらないようにしてますね」

 『星守る犬』のヒットにより経済的に回復した。ストーリー漫画の仕事も来るようになった。

 「名刺代わりになるような作品になったので、声をかけていただけるようになりました。ただ出版不況で本が売れなくなってますから。今後も漫画を描いていくのか、他のことにシフトしていくのか、現在老後のライフプランを考えています」
 現在は『ビッグコミックオリジナル』増刊号でのストーリー漫画『探偵見習い アキオ』の連載など漫画の仕事をしつつ、比治山大学短期大学部美術科で教鞭をとっている。

■“歪み”や“ひずみ”が武器に

 「インターネット時代になって発表する場が増えたので、漫画家にはなりやすくなりました。ただ食べていける人は一握りですね。クリティカルにヒットするものを描かないと生き残れない時代だと思います」

 そもそもはマジメなサラリーマンを目指していた村上さんだが、漫画家として過ごした半生に満足しているのだろうか? 
 「今思えば僕にはサラリーマンはつとまらなかったと思います。僕には非常識なところや、感覚的におかしなところがあるんです。それを取り繕って生きてきました。

 他人の言動を見て『こうしておけばいいんだな』って真似して切り抜けてきました。つまり自分の“歪み”や“ひずみ”をごまかしながら生きているんです。そういうのってふとしたときに見抜かれます。サラリーマンをしていたらどこかで大きな失敗をしていたと思います。
 幸い漫画家になったので“歪み”や“ひずみ”が武器になっています。“歪み”や“ひずみ”があるおかげで、普通の人とは違う変な感想を持ったり、想像をしたりできますからね」

 村上さんにはこれからも、人々が感動するストーリー漫画を、そして抱腹絶倒するギャグ漫画を描き続けてほしいと思った。
村田 らむ :ライター、漫画家、カメラマン、イラストレーター

最終更新:5月10日(金)6時00分

東洋経済オンライン

 

【あわせて読みたい】

【PR】Yahoo!ファイナンスからのお知らせ

Yahoo!ファイナンスの特集

平均年収ランキング

ヘッドライン