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「しーじゃとうっとぅ」は沖縄のヤンキーの絶対の掟であり、桎梏【橘玲の日々刻々】

4月25日(木)21時00分配信 ダイヤモンド・ザイ

 さまざまな社会調査で、日本の社会は大卒と非大卒(中卒・高校中退・高卒)の学歴によって分断されていることがわかってきた。だが私たちは(すくなくとも私は)、非大卒の世界をほとんど知ることなく、興味も持たずに生きてきた。

 そんなことを考えて、知念渉氏の『〈ヤンチャな子ら〉のエスノグラフィー ヤンキーの生活世界を描き出す』(青弓社)を手に取った。これは大阪の底辺高校の男子生徒(ヤンチャな子ら)の軌跡を20代前半まで追跡した貴重な記録だ。

 [参考記事]
●「日本社会は大卒か非大卒かによって分断されている」という"言ってはいけない事実"

 知念氏が参与観察した高校の生徒たちは、大きく〈ヤンチャ〉〈ギャル〉〈インキャラ〉に分類された。〈インキャラ〉は「陰気なキャラクター」の略語で、〈ヤンチャな子ら〉は(おそらくは〈ギャル〉も)、学校内で自分たちを「〈インキャラ〉ではない者」と位置づけている。

 それは、かつての不良のように、〈ヤンチャな子ら〉が番長グループや暴走族のような集団(共同体)をつくらなくなったからだろう。ヨーロッパの社会学者ジークムント・バウマン(戦前のポーランドに生まれ、ポーランド人民軍兵士としてナチス・ドイツと戦い、ワルシャワ大学で社会学を学んで講師となったものの、反ユダヤ主義の風潮のなかで大学を追放され、数カ国を渡り歩いたのちイギリス・リーズ大学の社会学教授となった)は、これを「液状化する近代」と名づけた(『リキッド・モダニティ 液状化する社会』大月書店)。

 これはなにも欧米だけのことではなく、日本の不良たちも「液状化」し、族(グループ)に分かれて敵対・抗争する〈ヤンキー〉から、よりゆるやかにつながる〈マイルドヤンキー〉〈半グレ〉になり、いまやそのつながりすらなくなって、たまたま知り合った同士が即興的な関係をもつ〈ヤンチャな子ら〉になったのだろう。

 だが知念氏によれば、そのなかでも「地元」に生まれ、「地元」のネットワークのなかで育った〈ヤンチャ〉には社会(関係)資本があり、高校を出た(中退した)あともそのコネクションを使って仕事を探し、貧しいながらも安定した家庭をつくっていく。それに対して「地元」のない〈ヤンチャ〉は、最初は夢をもって働きはじめても、やがて糸の切れた凧のように都会をさまよい、「グレイな仕事」に手を染め、いつしか音信不通になっていく。

 だとしたら、ヤンキー(ヤンチャ)は、地元(共同体)があればやっていけるのだろうか。

 社会学者打越正行氏の『ヤンキーと地元 解体屋、風俗経営者、ヤミ業者になった沖縄の若者たち』(筑摩書房)は、このテーマを考えるうえで最適な研究成果だ。

沖縄のヤンキーの調査をはじめたきっかけ
 広島に生まれた打越氏は、1998年、大学進学を機に沖縄での生活を始めた。

 ある日、友人たちと夜遅くまでドライブを楽しんだあと、大学構内の駐車場に自分の原付バイクを取りに行くと、そこで不良少年たちが酒盛りをしていた。そのなかの一人がバイクにまたがっていたため、打越氏は勇気を出して、「あっ、すみません」と声をかけ、バイクにカギをさそうとした。

 またがっていた少年から「このバイク、お兄さんの? 」と訊かれ、「そうなんですよ、せっかく盛り上がってるのに邪魔しちゃってごめんね」とこたえると、別の少年が、「兄さんも一緒に飲まない? 」と誘ってくれた。こうして大学生の打越氏は、彼らといっしょに地べたに座って乾杯した。

 不良少年たちは近所の中学校の卒業生で、仲間の一人が高校を辞めようとしていたため、友だち全員に緊急の集合をかけ、高校を辞めないように説得していたのだという(そのなかにはすでに学校を中退して働いている者もいた)。学校への不満などを口にしながら酒盛りはだらだとつづき、空が白みはじめたころようやく解散になった。

 打越氏はこの出来事がずっと記憶に残っていて、その後、何度かその駐車場に足を運んだが、彼らと再び会うことはなかった。その夜のことは20年近くたった今も鮮明に覚えているという。

 打越氏が大学に進学したのは教師になりたかったからだが、大学構内の夜の駐車場で不良少年たちと朝まで飲み明かしたとき、はじめて気づいた。「大学も高校も、彼らにとっては、一部の人間のためにつくられた場所で、しらけた出来レースが展開される場所でしかない」。公務員の両親のもと、何不自由なく生きてきた打越氏は、20歳になるまで、学校がそのような場であることを知らないままだった。「そのことが恥ずかしくてたまらなかった」と述懐する。

 その後、大学院に進学した打越氏は、学べば学ぶほど、何かを話したり書いたりすることが怖くなっていった。とくに沖縄について議論するとき、その怖れは強まった。「ないちゃー[本土の人]に、ボンボンになにがわかるのか」と自問自答し、ますます行き詰まっていった。

 そうした時期が数年続くうちに、わからないなら、わかるひとに話を聞かなければなにも始まらないと思うようになった。こうして沖縄のヤンキーの調査が始まった。

 社会学者による不良への調査としては、1980年代の暴走族を参与観察した佐藤郁哉氏の『暴走族のエスノグラフィー―モードの叛乱と文化の呪縛』(新曜社)が広く知られているが、打越氏の調査方法は独創的なものだった。ヤンキーの「パシリ」になって、彼らの活動に参加させてもらうのだ。

 この手法を思いついた理由を打越氏は、自分がパシリとして荒れた中学を生き延びたからだという。ヤンキーの先輩に逆らうと暴行され、かつあげされるため、休憩時間は彼らが喫煙するトイレの入口で見張りに立ち、先生が来るとくしゃみで知らせる係を買ってでた。「そんな私にとって、パシリになるという方法は、沖縄の暴走族やヤンキーの若者たちを取材する上で無理がなかったし、なにより私の性に合っていた」のだという。

沖縄のヤンキーの「しーじゃ(先輩)とうっとぅ(後輩)」という強いきずな
 2007年6月、打越氏は那覇市内のゲストハウスに拠点を据えて調査を始める。その当時、夜の「ゴーパチ(国道58号線)」では連日、ヤンキーたちの暴走イベントが行なわれていた。

 この頃の沖縄には、離島やへき地、私立を除くほとんどの中学に、それぞれ暴走族があった。マフラーやシートを改造した大型バイクを運転するのは地元のリーダー格の先輩で、その後ろには(小売店の店頭にあるのぼりを失敬し、旗の部分を取り除いた)スティックを振り回す中堅のメンバーが乗る。後輩たちは小型バイクで先輩たちのバイクを追走し、追ってくるパトカーを防ぐ役割だった。

 ひとつの暴走族は少なくとも5人、多い時には10人を超えていた。免許をもたない15歳以下の少年は後部座席にまたがり、16歳になると小型バイクを運転し、その後は大型バイクの後部座席、やがて大型バイクの運転手へと、年齢に応じてそのポジションも変わっていく。

 20歳すぎの地元の先輩たちはギャラリーとして見物し、後輩たちの暴走に「気合が入っていない」と、自ら一一〇番して警察を呼びつけ、その場を盛り上げようとした。後輩たちは、警察の検問を強行突破したり、追走してくるパトカーに対して小回りのきくバイクで逃げ回ったり、公道を逆走したりした。こうした様子を一目見ようと、平日なら50人前後、週末なら100人以上のギャラリーが集まったという。

 出身中学ごとに暴走族がつくられ、そのつながりはそれぞれ強かったものの、80年代のように暴走族同士が抗争を繰り返すようなことはなかった。夜の「ゴーパチ」は若者たちがともに暴走を楽しみ、暴走族デビュー前の10代の少年たちが小型バイクで顔見せをし、あちこちから集まったギャラリーがその場を盛り上げる「イベント」の舞台だったのだ。

 ギャラリーの男女比は7対3程度で、彼らは地元の中学生が一人前の暴走族としてデビューする姿を見守った。

 そのゴーパチで打越氏はギャラリーの若者たちに声をかけ、親しくなり、「パシリ」としてその生活圏に入っていく。彼らの多くは建設関係の仕事をしており、建設会社の日雇いとしていっしょに働くこともあった。

 そんななかで打越氏が発見したのは、「しーじゃ(先輩)とうっとぅ(後輩)」という地元の強いきずなだ。沖縄のヤンキーたちは地元のつながりのなかで生きていたが、それと同時に、まとわりつく「きずな」で身動きがとれなくなっていた。

しーじゃとうっとぅは絶対の掟
 沖縄のヤンキーにとって、しーじゃとうっとぅは絶対の掟で、そこには日常的に暴力がともなった。暴走族としてデビューする中学時代からうっとぅはしーじゃにくるされ(殴られ)、やがて自分に後輩ができると同じようにうっとぅをくるした(殴った)。

 地元の中学を卒業したうっとぅたちは、しーじゃの伝手で建設会社で働くことになる。土木、型枠大工、鳶、左官、鉄筋など、どの職種にするかにうっとぅの適性は関係なく、しーじゃがどこで働いているかでほぼ自動的に決まっていた。しーじゃにとって、うっとぅは遊びにも仕事にも気軽に誘える都合のいい存在だった。

 4、5年勤めても賃金はそれほど上がらないのに、技術を身につけた中堅従業員が建設会社を辞めないのは、新たに入ってくるうっとぅを自由に使えるからだった。仕事も生活もうっとうに面倒をみさせるようになると、転職も他地域への移動もそう簡単にはできなくなる。

 狭い沖縄では、中学時代のしーじゃとうっとぅの上下関係が社会に出てもそのまま続く。建設会社の経営者は「地元つながり」によって従業員同士の安定的な関係を得ることができたし、現場で必要なスキルの多くがこの上下関係をもとに継承されていた。――建設不況によって、いまではこうしたしーじゃとうっとぅの関係もかなり変わった。建設会社からすれば、仕事のできない10代より中堅社員の方が使い勝手がよいため、全体の高齢化が進み、現場では10代や20代の従業員が長続きせずに辞めていくという。

 しーじゃとうっとぅの上下関係は厳格で、建設現場だけでなく、深夜のプライベートな時間にもパシリをさせられる。先輩の機嫌をとるための言葉かけや、先輩たちの無理難題をなんとかやり過ごす手順は、後輩たちが覚えなくてはならない必須事項だ。

 ここで打越氏は、次のような例を挙げている。

 彼女と遊んでいるとき、先輩から飲みに行こうと誘いの電話がかかってくることがある。後輩は先輩たちに合流しなければならないがすぐには移動できないので、「あとから、まわってきましょうね」といって、いったん電話を切る。これを数回繰り返すことで、先輩の機嫌を損ねることなく、誘いをかわすことができる。「まわってきましょうね」という言い方が絶妙で、自分としては合流しようと思っているが、より年上の先輩から誘いが来るなど予想外のことがあるかもしれないと言外ににおわし、結果として行けなかったとしても、最初に誘ってきた先輩を怒らせずにすむのだ。

 沖縄が「狭い」というのは、トラブルを起こしたときに逃げる先がないということでもある。打越氏が知り合った若者は、飲み屋(キャバクラ)で先輩の女に(そうと知らずに)手を出したとき、「かめーられる(探される)」のをひどく嫌がった。

 2010年頃の沖縄では、ヤンキーどうしの情報交換がインターネットの掲示板で行なわれており、すでに地元を越えた広がりをもっていた。バイクの売り買い情報から盗難バイク犯の捜索、浮気相手まで、このネットワークを通じてさまざまな情報がやり取りされていた。

 ヤンキー世界で生きていく者にとって、この掲示板に、先輩から呼び出しを食らって顔を出さずに逃げ回っていると書き込まれるのは、何としても避けなくてはならないことだった。しーじゃとうっとぅのしがらみのなかで沖縄のヤンキーたちは、いち早く「評判社会」を生きざるを得なくなったのだ。

 金融屋(サラ金回収業)を続けていくうえで重要なのは、顧客のブラックリストよりも、信頼できる後輩を集めることだった。「信頼できる後輩」といっても、それは「地元つながり」でがんじがらめにし、金を持ち逃げできないようにした後輩のことだった、打ち子(パチンコの台打ち)にしても金融屋にしても、思いどおりになる後輩がいないとなにも始まらない。それが沖縄の「ヤンキー経済」だった。

沖縄では男女間のDVが頻発している
 しーじゃとうっとぅは沖縄のヤンキーにとって、一種の「安全保障」であると同時に桎梏でもあった。

 だがもうひとつ、ここには沖縄の「暗部」がある。それは先輩―後輩間の暴力が女性との関係にも持ち込まれ、DV(ドメスティックバイオレンス)が常態化していることだ。

 打越氏が家族と別居していたとき、中里という若者に電話すると、「打越もこれで、うちなーんちゅ(沖縄の人)、なれるさ」と励ましてくれた。離婚率の高い沖縄ならではの励ましだった。中里と仲のいい太一と慶太も一緒にいて、「おまえの気持ちはわかるよ、がんばろうな」と言葉をかけてくれた。中里と太一には離婚経験があって、妻子と離れて住むキツさを何とか乗り越えたと、自らの経験を話して打越氏を励ました。

 「彼らはおもしろくて、人間味のある若者だった」と書いたうえで、打越氏はこう続ける。

 「その一方で中里は、当時の妻が稼いだ生活費を奪い、スロットに注ぎ込んでいた。電話で励ましてくれた太一は、妻へのDVが原因で離婚し、中里のアパートに居候していた。慶太も、つき合っていた彼女に暴行をはたらき、罰金刑を受けた過去があった。おもしろく、やさしい彼らは、女性たちから生活資金を奪い、暴力をふるってもいた」

 沖縄の宿痾ともいえるDVについては、打越氏の共同研究者でもある社会学者・上間陽子氏の『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』(太田出版)でも繰り返し描かれている。

 ここでは打越氏と上間氏が共同でインタビューしたサキという女性の話を紹介しよう。

 サキは4人きょうだいの末っ子として沖縄県北部で生まれ育った。父親は自営業、母親はスーパーでパートをしていた。

 サキが中学のときにつき合った男は4歳年上の18歳だったが、窃盗で捕まって少年院に送られた。高校2年のときにつき合っていた別の男とのあいだに子どもができ、入籍した。出産後、しばらくしてキャバクラで働きはじめ、第二子を妊娠したときは高校を1年間休学して出産・育児に専念し、4年かけて卒業した。

 打越氏が2007年に出会ったとき、サキは妊娠7カ月(第二子)の女子高生だった。その頃のサキは、毎晩のようにゴーパチに来て暴走族見物をしていた。

 2014年の聞き取りで、妊娠中にゴーパチに通っていたのは、夫からの激しいDVがあったからだとサキははじめて打ち明けた。以下は、上間氏とサキの会話だ。

 上間 殴る系? 
サキ 殴ったりー、階段から落とされたりー。
上間 え―――っ。
サキ いちょ[一応]ひどい。結構。馬乗りもされたし、首も絞められたし。だから一応、トラウマはある。だから今の旦那とケンカしても、トラウマはある。この人、大丈夫かなぁ、殴ってこないかなぁ、みたいな。
上間 んんん。
サキ 結構ひどかったではある、あの人は。
上間 どんなやって逃げたの?  逃げたっていうのか。
サキ いや、自分、一緒に住んでるときは、普通に、相手が酒飲んでて、ケンカ(に)なって殴り始めるんですよ。ケンカ(に)なったら絶対、酒飲んで(る)から。だから、ひどいときは警察呼んだりとか。
(略)
サキ だからー、自分最初はー、子どももいるし、やっぱ(彼と暮らす家に)帰ろうっていうアレ(気持ち)があるんすよ。(DVを)やられてもー、ちょっとしたら帰る気になるんですよ。要は依存?  依存があるんですよ、多分、男のほうに。だから、依存して帰ってきたりはしてたんだけど、何かが吹っ切れてー。
上間 なんでだろうね。
サキ なんでだろうねぇ。
上間 もういいって思ったときってのは、赤ちゃん連れてって殴られたとき? 
サキ そうーっすねー。それが大きいかも、一番は。なんでか内容は忘れたけど、なんかでケンカしてー、マジ馬乗りされて、隣に赤ちゃんが寝てるのに、こんなされたらマジ嫌やっさーと思って、そっこー逃げたんすよ。でもう、これ離婚の原因っすね。子どもの前でやるくらいなら、自分一人で育てたほうがいいと思ってー。

 サキはその後、かねて交流のあった暴走族の後輩とつき合いはじめ、2009年には子どもと4人で暮らすようになった。警察に勾留されたことをきっかけに彼は暴走族を引退し、鳶として働くことをサキに誓った。2013年には入籍し、彼とのあいだに子どもをもうけた。旅行好きな両親の影響で、最近はよく家族で旅行に出かけるという。

 打越氏が調査を始めて10年たった2017年、ゴーパチで知り合った10代の若者たちはサラ金の回収業、金融屋の経営、スロットの台打ち、性風俗店の経営、ボーイ、型枠解体業、鳶、塗装、左官、彫師、バイク屋、ホスト、キャバクラ嬢、弁当屋、主婦になっていた。なかには「シャブ中(覚せい剤中毒)」で消息不明になったり、内地の刑務所に収監された若者もいた。

 ここで紹介したのは『ヤンキーと地元』のごく一部だが、「地元=共同体」に密着した若者たちの生活は大半が過酷だった。10年にわたってそんな「見えざるひとびと」を追い、彼らの人生を浮き彫りにした打越氏の研究から、これまで知らなかった(知ろうとしなかった)世界がこの日本にあることがわかるだろう。


 橘 玲(たちばな あきら)

  作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『「言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)、『国家破産はこわくない』(講談社+α文庫)、『幸福の「資本」論 -あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』(ダイヤモンド社刊)、『橘玲の中国私論』の改訂文庫本『言ってはいけない中国の真実』(新潮文庫)、『もっと言ってはいけない』(新潮新書) など。最新刊は『働き方2.0vs4.0』(PHP研究所)。

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最終更新:4月26日(金)15時15分

ダイヤモンド・ザイ

 

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