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高級住宅街「尾山台」は渋沢栄一の思想が生んだ

4月16日(火)5時30分配信 東洋経済オンライン

東急大井町線の尾山台駅。上りと下りのホームが別々に設置されているため、改札を出ないとホーム間を移動できない構造だ(筆者撮影)
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東急大井町線の尾山台駅。上りと下りのホームが別々に設置されているため、改札を出ないとホーム間を移動できない構造だ(筆者撮影)
 昨年、東急電鉄の前身でもある田園都市株式会社が設立100周年を迎えた。

 1918年に設立された田園都市株式会社は、渋沢栄一による最後の事業を実現させるための企業だった。渋沢が夢見た田園都市づくりは、当初、洗足駅を中心に目黒区・品川区・大田区にまたがるエリアでスタートした。だが、洗足田園都市と名付けられた住宅地の開発は、渋沢を満足させるものではなかった。

 そのため、第2弾として多摩川台の造成が進められた。大正期に著しく発展した多摩川台は田園調布と名を変える。田園調布は、理想の高級住宅街になった。そして“田園調布に家が建つ”というフレーズに使われるほど、田園調布は金持ちの象徴として語られるようになる。
 田園調布を完成させたことで役目を終えた田園都市株式会社は、1928年に子会社として設立した目黒蒲田電鉄に吸収される形で幕を下ろす。こうした歴史をたどったため、田園都市株式会社は現存しない。

 渋沢のDNAを受け継ぐ街は、洗足と田園調布の2つだけではない。田園調布に隣接する玉川村、現在の駅名でいえば東急電鉄大井町線の尾山台駅の一帯も、渋沢の思想を色濃く反映して造成された街といえる。

■独立意識の強かった玉川村
 世田谷区は玉川地域のほか、世田谷・北沢・砧・烏山の5地域に区分される。5地域は、それぞれが独自の街を形成し、雰囲気も生活環境も文化も微妙に異なる。それは、それぞれの地域が独自に発展を遂げてきたことに由来するが、その5地域でも玉川地域は独立意識が強かった。

 尾山台駅を含む玉川地域が、ほかの世田谷4地域より独立意識が強かったのは、村長を先頭に熱心に玉川村の開発計画に取り組んできたからだ。

 渋沢率いる田園都市株式会社が田園調布の開発に着手した際、その波は隣接する玉川村にも及んだ。実際、大田区田園調布と世田谷区尾山台は隣接しており、町を隔てる河川や山・谷はない。同じく世田谷区側には田園調布に隣接して玉川田園調布も存在する。
 渋沢によって開発が進められた田園調布は、駅を中心にエトワール(パリ凱旋門付近の環状道路と放射線状道路を組み合わせた形式)の道路が整備された。航空写真や地図で眺めると、整然とした田園調布の街はいかにも計画都市といった趣を感じさせる。

 一方、尾山台や玉川田園調布に環状道路は整備されなかった。それでも、尾山台・玉川田園調布は一区画が広くとられており、1つひとつの住宅が大きい。特に尾山台は田園調布と見紛うほどの高級住宅街でもある。渋沢の田園都市計画から外れた尾山台が、どうして田園調布と並ぶ高級住宅街になったのか? 
 尾山台が高級住宅街へ飛躍したのは、地元・玉川村の村長・豊田正治によるリーダーシップが大きかった。豊田は地元の名家に生まれ、若くして村長に就任。先見の明があった豊田は、来る東京の都市化を予測し、将来に備えて今のうちから玉川村の耕地整理を進めなければならないと村民を説得した。豊田の主張に基づき、1926年に玉川全円耕地整理組合が発足。翌年、工事を開始した。

 東京の人口が増えて玉川村も住宅地化するという豊田の予見には、きちんとした裏付けがあった。もともと田園調布の開発は、玉川村の有力者が渋沢に声をかけたことから始まっている。渋沢と玉川村有力者との面談の折、若き豊田も同席していた。そこで、豊田は渋沢の田園都市計画に触発された。
 そうした体験から、豊田には遠からず玉川村にも都市化が及び、そして住宅地化していくだろうとの確信があった。

 渋沢のような大資本を投下して都市計画を進めるのではなく、豊田は地元住民が主体になって街づくりに取り組む方針を固めた。地元住民によって、玉川村の区画整理が開始される。

■進む宅地化、確信は現実に

 豊田の描いたプランでは、全村を貫通する東西に走る幅22メートルの道路や各エリアに公園を新設し、公園と公園を結ぶ道路も建設することになっていた。また、村営の路面電車を運行することも考えられていた。豊田の描いたプランは、あまりにも壮大だったために反対も強く、規模を縮小させられた。
 また、壮大な計画だったために、計画完遂に長い歳月がかかった。豊田は耕地整理の途中で死去。リーダーを失うといった困難を乗り越えながらも、尾山台では耕地整理が着々と進められた。途中、東急の助力を得ながら、1954年に耕地整理は完了。田園調布とは異なる渋沢の思想を受け継ぐ街が全貌を現した。

 玉川村の耕地整理が進められている中、1927年には東横電鉄(現・東急東横線)が渋谷駅―丸子多摩川(現・多摩川)駅間を開業。1929年には、目黒蒲田電鉄(現・東急大井町線)が自由ケ丘(現・自由が丘)駅―二子玉川駅間を開業させている。尾山台駅は、その1年後に開業。豊田が予見した玉川村の宅地化が、ここから始まっていく。
 鉄道の開通が相次ぎ、駅が設置されたこともあって尾山台駅一帯は少しずつ宅地化されていったが、そうした中で農村・玉川村では新たな農業の形が生まれていた。大正末期にアメリカから帰国した農園主が、ビニールハウスを建設。その中で、カーネーション、スイートピー、シクラメンといった洋花の栽培を始めた。

 当初、近所の農家は「変なことを始めた人がいる」と怪訝な目で見ていたが、しだいにビニールハウス栽培による農家は増えていった。とくに、スイートピーはよそでは生産できない希少な花として名産になり、それは一帯の農家に莫大な利益をもたらした。
 スイートピーによる莫大な利益により、一帯の農地は次々とビニールハウスへと転換されていく。わずか10年で、ビニールハウスの面積は約4万2000平方メートルにまで拡大。当時、ビニールハウス栽培を手掛ける農家は、この一帯でしか見られなかった。不思議な光景だったこともあり、一帯は“玉川温室村”と呼ばれる。

 世田谷区側だけではなく、地続きの大田区田園調布側でもビニール栽培は見られた。世田谷区の公刊物では、同地域を“玉川温室村”と世田谷区の地名である玉川を使って呼んでいる。対して、大田区の公刊物では大田区の地名を用いて“多摩川台(田園調布)温室村”と呼んでいる。このあたりに、世田谷区と大田区の「温室村」ブランドを絶対に譲らないという気概が見え隠れする。
■新たな農業をリードした「園芸学校」

 温室村で栽培されていた品目は、時代とともに増加した。当初は花卉が多くを占めたが、メロンやイチゴといった西洋フルーツ、トマトやアスパラガスといった西洋野菜が生産されるようになった。

 尾山台・田園調布で先駆的な農業が始められた背景には、東京府立園芸学校(現・東京都立園芸高等学校)の存在が大きい。1908年に開校した園芸学校は、尾山台・田園調布から至近の深沢にあった。当時、唯一の園芸教育の専門学校だった園芸学校では、ラン栽培・盆栽と菊の剪定・梨の品種改良といった授業をしていた。
 地元農家が子息を園芸学校に入学させたほか、最先端の授業を受けようとして、他区からも入学希望が殺到。他県からの住み込みで通う学生や、朝鮮半島・台湾・ハワイからの留学生もいた。まさに、日本の園芸界をリードするような学校だった。

 園芸学校は有名な卒業生をたくさん輩出しているが、中でも鈴木省三は特筆すべき人物だろう。鈴木は1938年に「とどろきばらえん」を開園。“等々力”の名前を用いているが、バラ園は、尾山台駅―九品仏駅間にあった。
 24歳でバラ園をオープンさせた鈴木は、後に新品種を続々と発表。その偉業は海外にも伝わり、いつの頃からか“ミスターローズ”と呼ばれる。とどろきばらえんに咲き誇るバラは、多くの著名人を魅了した。戦前期、バラは敵国の花であるがゆえに表立って生産することはかなわなかったが、政府高官から「外交テーブルに花がないと、相手から日本は遅れた国と見なされる」と耳打ちされることもあり、鈴木のバラ生産は黙認された。

 戦後、復興が一段落すると、人々の間にも余裕が生まれ花を愛でるという娯楽も市民権を得る。とくに、とどろきばらえんのバラを愛したのが時の総理大臣・鳩山一郎だった。鳩山は公務の間を縫って立ち寄ることもしばしばあった。
■園芸文化は京成沿線へ

 周囲が宅地化したこともあって、とどろきばらえんは1974年に閉園。それ以前より、鈴木は京成電鉄から依頼を受けて、バラの研究開発に取り掛かっていた。

 京成は利用者の掘り起こしの一環で、千葉県習志野市で遊園地「谷津遊園」を経営していた。谷津遊園の名物は東洋一とも称されるバラ園で、鈴木はその管理を託されていた。また、管理のみならず新種のバラ開発の研究や後進の育成も任された。

 そうした縁から、とどろきばらえんの閉園後も鈴木は京成バラ園芸の研究所長として勤務。新種のバラ開発やバラを使った製品づくりに没頭した。1982年、谷津遊園は閉園。谷津遊園のバラを惜しむ声は強く、現在は習志野市が管理を継承している。
 谷津遊園を閉園した京成だが、京成バラ園芸は拠点を千葉県八千代市に移して、研究開発を今も続ける。

 尾山台一帯に広がっていた温室村の痕跡は、ほとんど残っていない。バス停名と道路端にポツンと立つ石標だけだ。しかし、東急沿線が生んだ園芸文化は京成へと受け継がれた。

 話を世田谷に戻そう。

 独立意識の強かった玉川地域は、1932年に東京市世田谷区に編入された。しかし、戦後間もない頃に世田谷区からの分離独立を模索した。そのきっかけになったのが、練馬区が1947年に板橋区から独立したことだった。
 玉川村と同じく、練馬町は1932年に板橋区に編入された。練馬は独立意識が強く、編入された後も独立を求める機運が下火にならなかった。戦後、練馬は板橋区からの分離・独立を勝ち取る。

 それに倣い、玉川地域でも世田谷区から分離・独立して新たに玉川区を目指す機運が高まった。しかし、玉川区は幻に終わった。その理由ははっきりとしないが、玉川とほかの世田谷4地域とが鉄道でつながっていることで一体性が生まれたことが要因の1つともされている。
 そして、独立運動が沈静化する頃、世田谷区には宅地化の波が押し寄せていた。中学を卒業したての金の卵たちが、集団就職列車に揺られて東京へと大量にやって来たのだ。金の卵たちは職場である工場や商店に住み込みで働いたが、25歳前後で家庭を持つようになる。そのため、昭和20年代後半から東京近郊は住宅不足が深刻化する。

■今も変わらぬ高級住宅街

 政府は1955年に日本住宅公団を発足させて、住宅難の解消に努めた。それでも、地方からは仕事を求めて上京する若者が後を絶たず、東京都や神奈川県、横浜市といった行政が住宅整備に追われた。
 田園都市線の沿線を中心に、東急電鉄もニュータウンの造成に力を注いだ。しかし、住宅を建設すればするほど、新たな住民が流入。そのため、一向に住宅難は解消されなかった。田園都市線の沿線人口は、その後も増加を続ける。50年後には、沿線人口が約50万人も増加した。一方、早くから区画整理が進められていた玉川地域では、高度経済成長期でも新住民が大量に流入してくる現象は起きなかった。

 現在、尾山台駅前には商店街「ハッピーロード尾山台」があり、そこは16時から18時までの間は歩行者天国になる。買い物客であふれる「ハッピーロード尾山台」とは対照的に、商店街の終端である環状8号線から南側には昔から変わらない佇まいの高級住宅街がある。
 現在、その高級住宅街の一画には、五島育英会運営の東京都市大学がキャンパスを構える。その名前からもわかるように、五島育英会は東急創業者・五島慶太が興した学校法人だ。そして、多くの学生が行き交うキャンパスのすぐ横が、かつて一面にビニールハウスが広がっていた温室村になるのだが、そこに思いをはせる学生たちは少ない。

 農業や園芸といった来歴を経た尾山台は、落ち着いた高級住宅街として今を歩んでいる。
小川 裕夫 :フリーランスライター

最終更新:4月16日(火)5時30分

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