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日本各地を「急行」が走っていたあの頃の記憶

3月24日(日)8時37分配信 東洋経済オンライン

中央本線を走った急行「アルプス」(筆者撮影)
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中央本線を走った急行「アルプス」(筆者撮影)
 今ではJR線上から姿を消した「急行列車」。だが約40年前、1977(昭和52)年初版の拙著『特急・急行大百科』(「ケイブンシャの大百科」シリーズ)では、筆者は当時の国鉄の急行列車をすべて現地写真取材し、その数は179列車に及んだ。

 当時は急行列車の全盛期だったが、それにしても急行がそれほどあったとは改めて驚きだ。しかし、その後急行は相次いで姿を消し、今やJRの定期列車としては1本も存在しない。すっかり淘汰されてしまった急行列車の数々を思い起こしながら、その系譜を振り返ってみたい。
■長距離を走った客車急行

 長距離を走る急行列車の多くは客車を機関車が牽引する列車だった。昭和30年代、東海道・山陽本線を走破して東京と九州を結んだ長距離急行「高千穂」「雲仙」などは、東京からの電化区間はEF58形などの電気機関車が牽引し、まだ電化されていなかった岡山以西や九州内はC59形蒸気機関車などが先頭に立った。東北方面も、常磐線の電化以前は急行列車がC62形蒸気機関車に牽引されて上野まで乗り入れていた。
 北海道では、札幌―函館間を結んだ「ニセコ」が函館本線の山線といわれる小樽―長万部間をC62形の重連で峠越えし、ファンの人気を集めた。札幌―網走間の「大雪」も、普通列車として運行する北見―網走間(「大雪くずれ」と呼ばれた)をC58形蒸気機関車が牽いて走った。九州に目を移すと、京都と西鹿児島を結ぶ「日南3号」が1973年10月から翌1974年4月までの短期間、C57形蒸気機関車が宮崎―都城間で先頭に立ち、蒸気機関車の終焉の時期とあってSLファンを喜ばせた。
 筆者が思い出に残っている客車急行は、上野―青森間の「津軽」「八甲田」である。この列車は、東北本線の黒磯と上野の間はEF58形・EF57形電気機関車が牽引した。特に1940年製のEF57形は前面にデッキが突き出たいかつい外観の機関車で、鉄道ファンの注目の的だった。

 東海道本線では、東京―大阪間の寝台急行「銀河」が特筆されよう。1949年の運行開始時は旧型客車を使用していたが、その後特急用の20系客車をEF58形が牽引するようになり、東海道本線の花形急行として君臨した。「銀河」は夜行列車が次々と姿を消すなか2008年3月に廃止された。末期には24系寝台客車をEF65形1000番台が牽いて走っていたが、筆者が思うに20系客車の時代が最も華やかであったように感じる。
 急行とともに客車列車そのものが車両の老朽化、分割民営化のあおりを受け次々と姿を消していく中、全国で最後まで残った定期急行は客車列車だった。青森―札幌間を結んでいた「はまなす」で、2016年3月に北海道新幹線の開業に伴い廃止され、ここにJRの急行列車、そして客車による定期列車の運行は幕を閉じた。

■津々浦々を走った気動車急行

 客車急行は長距離・夜行列車が多かったが、1956年に準急用気動車のキハ55形が新造され、さらに1961年に急行用のキハ58系が誕生すると本線からローカル線まで準急・急行が各地で走るようになった。
 気動車による急行(準急)は電化された幹線からローカル線に乗り入れたり、ローカル線を渡り歩くように走ったりと、どこでも走行可能で連結や切り離しも自由という気動車の特徴を生かしたユニークな列車が多かった。

 例えば急行「大社」は、名古屋と金沢を出発した列車が敦賀で併結して、小浜線、舞鶴線、宮津線、山陰本線を走破して出雲市(普通列車として大社線大社まで運転)に至る全長537.2km(名古屋発の場合)を走破する列車で、約11時間かけて日本海沿いをロングランした。
 気動車急行はローカル区間はもちろん、北海道や東北、四国などの非電化区間の花形として活躍し、函館―稚内間の「宗谷」は本州からの青函連絡船と接続し、最北端の稚内まで680.7kmを10時間55分かけて走りぬいた。四国の急行はヘッドマークを付け、名実ともに看板列車だった。

 上野―酒田間の「出羽」のように夜行の気動車急行もあり、帰省客や周遊券旅行者に重宝された例もあった。

 中国地方も気動車急行が多く、「丹後」「だいせん」「白兎」など数多くの列車が走っていた。長らく残ったのは、倉吉―岡山間を因美線・津山線経由で結んでいた「砂丘」で、急行が減少する中でも優等列車として君臨し、1997年11月に廃止されるまでファンの注目を浴びた。
 急行に使われた気動車は国鉄時代に製造されたキハ58系が最も多かったが、JR化後の新形気動車を使用した例もある。JR東日本は1990年、釜石線の急行「陸中」に新造したキハ110系を投入。名古屋―奈良間133.9kmを結んだJR東海の急行「かすが」は、1999年に快速「みえ」と共通運用のキハ75形が投入された。一般的に急行は2ドア車である中、3ドア車の急行として話題になったが、残念ながら2006年3月18日に廃止された。
 ちなみに気動車急行のラストランナーは岡山―津山間の「つやま」で、2009年3月に廃止された。これは気動車急行の歴史に終止符を打つとともに、昼行急行列車の消滅でもあった。

■幹線を駆け抜けた電車急行

 電車による急行運転は戦前からあり、1934年に大阪―神戸間で「急行電車」の運転が始まった。ただ、これはその後の急行とは異なり急行料金は徴収せず、現在の「新快速」の前身である。当時の名車として知られるのが、1936年に誕生した流線形のモハ52形電車だ。
 料金を徴収する急行に電車が使用される原点となったのは、1957年に80系電車による運行を開始した東京―名古屋間の準急「東海」と、名古屋―大阪間の準急「比叡」だろう。

 翌年にはその後の急行型電車の原型となる153系が登場し、「東海」「比叡」もこの車両に置き換えられた。初の電車による急行となったのは、この153系を使用して1960年に登場した「せっつ」で、東京―大阪間を7時間46分で走破した。

 以後、東海道・山陽本線には「いこま」「六甲」「よど」などが登場した。電車による急行は他線にも広がり、1963年には153系を発展させた165系により、上越線に急行「佐渡」、信越本線に急行「信州」などが運転されるようになった。中央本線では「アルプス」が代表だろう。
 これらの長距離急行には半分をビュッフェとした車両が連結されており、「せっつ」には握り寿司カウンター、「アルプス」「信州」などではそばが食べられた。今となっては伝説的な急行電車の食堂車だ。

 主要幹線の直流電化が終了すると地方の幹線は交流電化が進み、これらの路線には交流・直流の両方に対応した451系・471系、455系・475系などの急行型電車が投入された。

 北陸本線では1963年に「ゆのくに」が急行格上げとともに電車化、1965年には「立山」が客車から電車に変わり、翌1966年には名古屋―金沢間で「兼六」が運転開始した。北陸線で運転された急行電車の多くは、9両の基本編成に付属編成3両を加えた堂々たる12両編成で、半ビュッフェ車のサハシ451形と1等(グリーン)車2両を連ね、北陸の看板列車だった。
 これらの急行は、1974年の湖西線開業以降は次々と特急に編入され「立山」「ゆのくに」などは特急「雷鳥」に、「兼六」「くずりゅう」は特急「しらさぎ」に格上げされて事実上の「値上げ」となり、一時期は急行列車王国といえた北陸本線から急行が相次いで姿を消した。

 交流・直流両用の急行型電車は、交流電化の進展により東北方面や九州内の急行でも活躍した。東北本線には「まつしま」「ざおう」「ばんだい」「いわて」、常磐線には「ときわ」などが運転されたが、1982年の東北新幹線開業により、急行全盛時代の幕は閉じられた。
 九州内では「ゆのか」「ぎんなん」「かいもん」「日南」などがあったが、これらも特急への格上げなどで次々に廃止された。特に博多―熊本間で1日9往復の運転本数を誇っていた「ぎんなん」は、L特急「有明」に完全に吸収され、実質的な値上げとなった。

■平成で幕を閉じた「急行」の歴史

 電車による急行が最後まで走り続けたのは、かつて急行列車王国だった北陸だった。

 上野―金沢間の「能登」が2010年3月に定期列車から臨時列車となって事実上消滅し、その後も残った新潟―大阪間の「きたぐに」も2013年に廃止された。どちらの列車も、末期は特急型車両の格下げ運用であった。
 かつて日本の鉄路を支え、40年前には約180の列車が全国を駆け抜けていた急行は、旧国鉄末期に進んだ増収目的の特急への格上げや、新幹線の開業による在来線合理化などで相次いで姿を消した。そして、明治期から続いてきたその歴史は平成の時代に途絶え、今や「急行」の名称は私鉄の通勤電車などに残るだけとなってしまった。
南 正時 :鉄道写真家

最終更新:3月24日(日)8時37分

東洋経済オンライン

 

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