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大火で大儲け、台風で大損 「100人に1人」の相持つ「横浜の父」 高島嘉右衛門(上)

12月28日(金)15時40分配信 THE PAGE

[画像]高島嘉右衛門(横浜市教育委員会「横浜の歴史」より)
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[画像]高島嘉右衛門(横浜市教育委員会「横浜の歴史」より)
 「横浜の父」とも称される高島嘉右衛門(たかしま・かえもん)。横浜みなとみらい地区にある地名や駅名はその名残です。事業家として、この地で鉄道用地の埋め立てや日本初のガス灯の設置などを手がけ、横浜の発展に寄与しました。高島にはそれだけではなく、安政の大地震のときに木材で巨利を得た投機師としての顔、そして日清・日露戦争の開戦を言い当てたという易者としての顔もあります。

 5歳で「四書五経」を読み始めたという幼年期から、「火」と「水」で伝説的な大儲けと大損を経験するまでを市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。
 
 3回連載「投資家の美学」高島嘉右衛門編の1回目です。

5歳から「四書五経」を読み始める

 「豪商にして易理を考え、投機師にして哲理を論じ、実業家にして孔孟の教えを学び、というような人物は、数多い紳商(品格のある大商人)の中でも、この高島呑象(どんしょう)の外にはあるまい」―― 明治時代の豪商たちの足跡を検証した岩崎錦城はその著「現代富豪奮闘録」の中で、高島嘉右衛門をこう評した。

 高島嘉右衛門の父、遠州屋こと高島嘉兵衛は東北の南部藩や佐賀の鍋島藩に出入りする御用商人であったが、義侠心は人一倍強かった。南部藩が大飢饉に見舞われた時、佐賀へ出掛けて3万石の米を買い付け、船で盛岡まで送ったことがあるが、三井、岩崎(三菱)でもできない快挙と称えられたものである。

 嘉右衛門は生まれながらに病弱で、心配した父親は当代切っての高名占い師、水野南北を呼び、まだ2歳にもならない嘉右衛門の人相を見てもらった。この時、南北は100人に1人の「九天九地」の相に絶句したと伝えられる。

 天に昇れば神仏となり、地に堕(お)ちれば悪魔にもなりかねない両極端で数奇な運勢を背負ってこの世に現れたわけである。俗に「易聖」と呼ばれる嘉右衛門の易との最初の出会いであった。

 5歳のころから難解で知られる「四書五経」(大学・中庸・論語・孟子と易経・詩経・書経・春秋・礼記)を読み始め、14歳で残らず読み終えたという。そのころ嘉右衛門は父の命で藩の建築工事を任され、450両もの大金をもうけた。

 これが初陣で以後、豪商への道をひたすら歩むが、両極端の運勢を持つ嘉右衛門は成功と挫折を幾度となく繰り返す。

「火で儲けて水で損した」嘉右衛門

 汗牛充棟(かんぎゅうじゅうとう)の嘉右衛門伝に共通するのは、「少年時代に図抜けた頭脳と商才に恵まれていた」という点である。

 19歳で家督を継ぐが、義兄の不始末で背負い込んだ6000両の負債ごと相続し、悪戦苦闘が始まる。

「彼一日、棟梁金谷万五郎に伴われて観相を依頼、『8年後に1万両の身代(しんだい)を得べし』といわれて力を得、深川の材木商より材木を借り出し、さらに500両の融通を受け…」(実業之世界社編「財界物故傑物伝」)

 主に木材の商いで商才を発揮し、わずか3年で借金をすっかり返済した。

 父・嘉兵衛が死に際、嘉右衛門を呼んで「おれには天に預けた金がある。よく働いてこの金を取り戻せ」とナゾめいた言葉を残す。その意味を嘉右衛門は自己流に解釈した。父は生後多くの人を助けてきたから、一生懸命働けば、ひとが自分を助けてくれるに違いないと読んだ。

 安政2(1855)年10月、歴史に名高い「安政の大地震」が起こると、思惑して抱えていた木材が飛ぶように売れ、2万両という巨利を博した。一獲千金で知られる紀文(紀伊国屋文左衛門)か河村瑞軒の再来だと話題を呼んだが、実は前年6月のある夜、「東北の空に大流星を見て世情の不穏を予知し、資金をかき集めて江戸中の木材をことごとく買い占めていたのである」(祖田浩一編「日本奇人・稀人事典」)

 これには異論があって、「家のしきたりで赤飯をたくと、釜がたちまち鳴動してやまない。嘉右衛門が占うと遠からず大火を見るという卦(け)である」。翌日嘉右衛門は家屋敷を担保に入れて金2000両を調達し、四方八方に奔走し、木材を買い占めたという説である。

 いずれにしても木材の買い占めで巨利を手にしたが、それも束の間、翌安政3年には超大型台風が江戸を襲い、嘉右衛門が「2匹目のドジョウ」を狙って新たに仕込んであった木材がことごとく流出し、せっかくのもうけを吐き出すばかりか、借金を抱える始末。「九天九地」の占いは図星であった。

 明治の経済人のエピソードを集めた「明治実業家奇聞録」にも上記の話が収められている。題して「嘉右衛門、火にもうけ水に損す」。

自慢のトークも大隈重信には“完敗”

 このエピソード集には「嘉右衛門、大隈伯に参る」の項がある。嘉右衛門は人と会って話題が易のことになると、話が止まらなくなる。時の名流・伊藤博文や山県有朋でも高島の話に聞き入ってしまう。ところがある時、早稲田に大隈伯を訪ねた。「とうとうとして談じ、こんこんとして尽きず。嘉右衛門をして口を開くのいとまなからしむ。高島、人に語りて曰く。『大隈という人はおそらくお釈迦様の前でも説法する人だろうよ』」

 高島の悔しさが十分想像できる。=敬称略
■高島嘉右衛門(1832~1914)の横顔
天保3(1832)年、江戸の三十間堀(さんじっけんぼり、現在の銀座付近)生まれ、14歳で四書五経を読み終える。木材の商いで成功、安政2年の大地震では伝説的な大儲けをやってのける。為替の売買で巨利を占めるが、国禁を破った廉(かど)で4年余り獄中の人となる。出獄後、建築請負で資産を増やし、京浜間の鉄道敷設では埋め立て工事を独占的に受注、横浜の近代化に貢献。現在のみなとみらい線「新高島駅」や横浜市営地下鉄「高島町駅」の駅名はその名残。のちに易学界に転じ、「高島易断」を開祖。呑象と号した。

最終更新:12月29日(土)17時49分

THE PAGE

 

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