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第1次大戦で天国から地獄 「アラビア太郎」の山っ気あふれる青年時代 山下太郎(上)

11月16日(金)15時50分配信 THE PAGE

[写真]山下商会を設立した頃の山下(講談社「実業界の巨頭」より)
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[写真]山下商会を設立した頃の山下(講談社「実業界の巨頭」より)
 日本初の「日の丸油田」を開発した「アラビア石油」。この会社を設立し、油田を掘り当てたのが大正から昭和にかけて活躍した実業家の山下太郎です。「満州」「アラビア」など実業にまつわるキーワードのほかに、「山師」「怪物」のような異名も持つ山下は、その後の日本経済界に影響を与える大物たちとの人脈に恵まれました。ブローカー業務からオブラートの事業化、第1次世界大戦の好景気で大もうけからの転落人生――。浮き沈みの激しかった山下の前半生を市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。

 3回連載「投資家の美学」山下太郎編の1回目です。

乱世型の勝負師、オブラートの事業化も

 山下太郎ほど、さまざまな異名を持つ経済人も少ないだろう。同時代を生きた山下汽船社長の山下太郎がいたこともあって、本名で呼ばれることはほとんどなかった。

「満州太郎」「アラビア太郎」「山師太郎」「政商」「黒幕」「昭和の天一坊」「バッタ屋」「一発屋」「大ボラ太郎」「怪物」「プレゼント魔」……異称の数だけ山下の人間としての丈の大きさと行動半径の広さを物語っている。

 「山師、大いに結構、いまこの世に一番大事なことは山師の根性ではないだろうか」――山下語録の中で最も世に喧伝された一節である。
[写真]札幌農学校の頃の山下(講談社「実業界の巨頭」より)
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[写真]札幌農学校の頃の山下(講談社「実業界の巨頭」より)
 山下はクラーク博士の「青年よ、大志を抱け」の一言に魅せられ、北の大地を踏んだ。札幌農学校(現北海道大学)での成績は振るわず、いつもビリだったと伝えられているが、明治42(1909)年に卒業すると、東京深川・佐賀町で「山下商会」を創業、ブローカー業務を始める。

 電話1台、机2脚で鉄や肥料の仲買業をやると、結構商売になった。その傍ら、オブラートの事業化「山元オブラート」を始めるのだから「怪物」と呼ばれるにふさわしい。社名は山下の「山」とパートナー白石元治郎(後に日本鋼管社長)の「元」から「山元」と命名した。

 ロシア革命の最中、若者数名に現金を背負わせてウラジオストクに渡らせ、缶詰を買い付け、巨利をつかむ。そしてアメリカからブリキを輸入して大もうけするのもそのころだ。

 折から「第1次世界大戦」景気で商品相場が未曾有の大波乱を展開していた。それは乱世型の勝負師、山下太郎には格好の舞台装置であった。

山っ気たっぷりな2人の青年ブローカー

 そのころ山下の周辺には山っ気たっぷりの青年ブローカーが2人いた。1人は政財界で活躍した「永野六兄弟」の長兄に当たる永野護(まもる)、もう1人は「実業界の父」渋沢栄一の息子、渋沢正雄であった。3人は不思議にウマが合った。山下に「ブリキがもうかるゾ」と勧められると、渋沢も永野もすぐ飛び乗る。

「渋沢は父栄一の七光りを利用して、渋沢の会社のブリキを売ったところたちまちのうちに20万円の利益を得た今日(編注:昭和40年代)の金にすれば1億に近い額である。もうけた金を資本にして、思惑をやるとさらに2倍になり3倍になって、返ってくる。さあおもしろくてしようがない。金というものが、こんなに簡単にもうかるのに、もうけようとしない世間の貧乏人が馬鹿にみえる」。(杉森久英著「アラビア太郎」)

昭和40年代の1億円は、現代では軽く10億円を超すだろう。

第1次大戦後の市場暴落で裸一貫に逆戻り

 ところが、大正8(1919)年6月、第1次大戦を終結させたベルサイユ条約が成立、翌9年3月には景気の反動に見舞われて市場はパニックとなる。1トン当たり1075円で契約したブリがただの80円に暴落したから血気盛んな若者たちもひとたまりもない。

「渋沢正雄は父栄一から勘当同様となり、永野護は渡辺商事を追われて満鉄(南満州鉄道)に就職することになり、山下は麹町の宏壮な邸宅を売り払って、借家住まいに零落、『しばらくはニワトリでも飼って暮らすか』と永野に語ったという」(三鬼陽之助著「海外で勝負した男・山下太郎」)

 ブローカー業で数々の大山を当てた山下は麹町六番町に立派な邸宅を建て、自家用車を乗り回す日々だったが、元の裸一貫に逆戻りである。前出の「アラビア太郎」は山下の心情をこう描いている。

「山下太郎のように見栄坊で、派手好きで外面を飾りたがる男にとって、せっかく仲間入りした上層階級からはみ出して、もとの小商人に帰るのは死ぬよりつらいことである」

 直木賞作家、杉森久英流の辛口描写だが、30歳前後の“成り上がり太郎”の神髄をついているように思われる。=敬称略

【連載】投資家の美学<市場経済研究所・代表取締役 鍋島高明(なべしま・たかはる)>

■山下太郎(1889-1969)の横顔
 明治22(1889)年、東京に生まれるが、すぐ父のふるさと秋田県大森町に移る。太郎の父正治は「天下の糸平」こと大相場師、田中平八のもとで小僧となり、博才に恵まれていた。その血は太郎にも受け継がれた。
 慶応義塾から札幌農学校に進む。明治42年に卒業すると、東京でブローカー業務を始める。大正3(1914)年、山元オブラート会社を設立。大正5年には東京・深川で山下商会を開業、穀物、鉄鋼の貿易で財を成す。第1次大戦景気の反動で“成り金”から元の“歩”に逆戻りする。満州に渡り、再び商才を発揮、満州成り金と称せられるが、敗戦で無に帰した。昭和33(1958)年、アラビア石油会社を設立、同35年、1回目のボーリングで大規模海底油田を発見。これがカジフ油田である。世界第1級の大噴油によって「アラビア太郎、1000万ドルの笑顔」と世界中で報道された。以後、石油メジャーの頼らない「日の丸石油」の発見と採掘・輸出を進めた。

最終更新:11月16日(金)16時54分

THE PAGE

 

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