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地下鉄は核シェルター?鉄道都市伝説の真贋

11月9日(金)4時50分配信 東洋経済オンライン

国会議事堂前駅(写真:sunny/PIXTA)
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国会議事堂前駅(写真:sunny/PIXTA)
 2018年4月に南北朝鮮の首脳会談が実現して融和ムードが広がり、6月には史上初となる米朝首脳会談がシンガポールで開催されるなど緊張は一気に緩和したが、日本から核の脅威が取り除かれたわけではない。

 北朝鮮の核開発以前、長らく米ソの冷戦が続き、この冷戦下でも両国に挟まれた日本は渦中にあった。核戦争から逃れようとする術をめぐっても、都市伝説は多く生まれた。

 東京のあちこちに造成された地下空間は核攻撃から身を守るための核シェルターであるという説もそのひとつだ。
 地下空間は人目に触れることが少なく、その構造は謎めいている。それが都市伝説を生む要因でもある。特に東京には地下鉄がたくさん走っている。そのため、地下鉄核シェルター説には事欠かない。

■永田町と国会議事堂前駅は地下でつながっている

 核シェルター説を生む地下鉄駅の筆頭といえば、いの一番に挙がるのが永田町駅だ。永田町駅周辺には自由民主党や国民民主党(旧・民主党本部)といった政党が本部を置き、衆参議員会館もある。言うまでもなく“永田町“は、政治の中枢を表す符丁としても使われている。
 しかし、永田町界隈に政治の中枢が集積した当時、まだ永田町駅は存在しなかった。永田町駅が開業したのは1974年。それまでは丸ノ内線の国会議事堂前駅を利用するしかなかった。

 国会議事堂や首相官邸・首相公邸の最寄り駅である国会議事堂前駅は、営団地下鉄の駅として1959年に開業した。衆議院敷地内の地下に駅が設置されている。

 60年安保では、衆議院の指示によって2度の封鎖を経験した。その際、丸ノ内線の電車は国会議事堂前駅に停車したものの、客の乗降はなかった。いわゆる、“運転停車”で済ませられた。
 国会議事堂前駅、永田町駅、官邸・衆参議員会館・国会議事堂は地下通路でつながっており、国会議員や議員秘書、衆参議院職員などの関係者は、この地下を使って日常的に移動をしている。この地下通路を一般人が使うことはできず、それが都市伝説を生む素地にもなっている。

 国会議事堂前駅や永田町駅にまつわる都市伝説は無数に存在するが、広く流布しているのが有事の際に核シェルターとして使われるという話だ。

 どうして、そのような都市伝説が生まれたのか?  その根源は、戦時下の防空政策とその後に起きた60年安保闘争に求められる。
 60年安保は、岸信介内閣によって改定交渉が進められた安保条約への反対運動だ。10万人以上とも言われた学生たちが、「岸首相を国会に入れなければ、安保改正を阻止できる」と考えて国会議事堂を包囲した。

 国会議事堂は、学生たちに完全に包囲された。それでも、岸首相は悠然と国会に姿を現した。どうやって岸首相は包囲網を潜り抜けたのか?  その行動には、謎が残った。憶測が憶測を呼び、国会や官邸周辺には秘密の地下通路があるという都市伝説が生まれた。
 前述したように、現在は官邸・衆参議員会館・国会議事堂などは地下通路でつながっている。しかし、この時点で地下通路は完成していない。

■首相官邸の地下には防空壕があった

 公式的に、地下通路の一部が完成するのは1963年。その後、地下通路は順次拡大。現在は一帯に地下空間が張り巡らされている。地下空間が完成していなかったのだから、岸首相は地下通路から国会に移動できなかった、とされる。

 とはいえ、岸首相が地下通路を使って移動したという話を荒唐無稽と断じられない。首相官邸の地下には、本土への空襲に備えて防空壕が1942年に造成された。官邸防空壕には執務室・閣議室・書記官長室・秘書室・書記官室・機械室兼事務室の6室があり、外部につながる緊急避難用トンネルも整備された。
 また官邸防空壕のほかにも、官邸と国会議事堂の間にある道路の真下に中央防空壕を計画。中央防空壕の深度は13~14m、防空壕の全長は400mと大規模の中央防空壕は、国会や周辺の官庁舎とも結ばれていた。

 官邸防空壕は完成を見たものの、中央防空壕は工事の途中で終戦を迎えた。中央防空壕の掘削工事がどこまで進んでいたのかは明らかにされていないが、仮に人が通れるレベルまで工事が進んでいれば、60年安保の際に岸首相が極秘で行き来することは可能だ。政治の中枢に立地する国会議事堂前駅に都市伝説が生まれるのは自然な流れといえるだろう。
 都営大江戸線は東京の地下鉄でも屈指の深い区間を走る路線でもある。40m以深の地下空間は通常の地下空間と区別されて大深度地下と呼ばれる。現在の東京では、大深度地下空間は鉄道や道路、下水施設などのインフラに活用されているが、大深度地下は地震などの災害から身を守るためにも有効と言われており、大江戸線が核シェルターに早変わりするという都市伝説は一部でかたくなに信じられている。

 大江戸線の光が丘駅は自衛隊が有事の際に使用する駅として知られる。光が丘駅の近くには練馬駐屯地があり、陸上自衛隊は光が丘駅から地下鉄内を伝って都内各地へ移動するからだ。
 大江戸線は東京都庁とつながっており、なおかつ牛込柳町駅から防衛省にもアクセスできる。これは石原慎太郎都政下で副都知事を務め、退任後は明治大学でも教鞭をとった青山やすし氏がテレビ番組や雑誌などでたびたび披歴している話だ。

■光が丘公園はかつてアメリカ軍の住宅地だった

 大江戸線核シェルター説を生んだ光が丘駅の来歴にも注目したい。大江戸線終端の光が丘駅は、光が丘公園・光ヶ丘団地の地下に開設されている。

 光が丘公園は1981年に開園したが、それ以前はグラントハイツと呼ばれるアメリカ軍の住宅地だった。最盛期は約7万人のアメリカ軍関係者および家族が生活していたグラントハイツは、日本人が容易に立ち入れない“異国の地”でもあった。
 当時、グラントハイツ住民の足を担ったのは東上線の上板橋駅から分岐していた東武啓志(ケーシー)線だった。ケーシー線は、上板橋駅―グラントハイツ駅間の約6.3kmの短い路線で、全線が単線非電化だった。東上線は1929年に全線が電化を完了していたので、ケーシー線ではわざわざガソリン車や機関車を借りて運行していた。

 人口7万人を抱えるグラントハイツだったが、ケーシー線の運行本数は多くなかった。しかし、運転本数に比して、グラントハイツ駅の規模は大きかった。引込線は4本あり、旅客ホームのほかに貨物列車用のホームがあった。そこには石炭を積み置く施設も併設されていた。グラントハイツが日本に全面返還されたのは1973年で、そこから公園や住宅団地の着工までには、さらに4年の歳月を要した。
 グラントハイツに関しては現存する資料が少なく、いまだに研究者や学者によって全容解明が進められている。また、グラントハイツに転換される前、同地は大日本帝国陸軍の成増飛行場だった。そうした来歴が、光が丘駅に都市伝説をもたらす遠因でもある。

 都市伝説には、真実と虚構が微妙に入り混じる。それだけに、どこまでが事実で、どこから尾ひれがついたうわさ話なのかを判別することが意外にも難しい。鉄道界では長らく事実として語られてきた忌避説が、後年になって都市伝説だったことが判明してもいる。こうした鉄道忌避伝説とは逆に、虚構と思われていた話が事実というパターンも存在するだろう。
 鉄道にまつわる都市伝説、信じるか信じないかはあなた次第だ。
小川 裕夫 :フリーランスライター

最終更新:11月9日(金)4時50分

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