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“日蓮”と称された炭坑王、森鴎外の文章に奮起したのか 麻生太吉(上)

1月19日(金)15時40分配信 THE PAGE

麻生太吉『麻生太吉傳』刊行所:麻生太吉傳刊行會発行第一書房 より
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麻生太吉『麻生太吉傳』刊行所:麻生太吉傳刊行會発行第一書房 より
 明治から昭和にかけて、九州・筑豊の石炭産業をリードした麻生太吉は、裕福な家庭に生まれ育ち、貝島太助や安川敬一郎のように、貧乏から成金へ劇的な大変貌を遂げたわけではありません。金持ちではあるものの、粘り強く、不正が許せない性格で、みずからつるはしを振るい炭脈を掘り当てるなどして、周囲の尊敬を集めてきました。第92代内閣総理大臣で現財務大臣・麻生太郎の曾祖父としても知られている麻生太吉の炭鉱実業家のスタート期を市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。

森鴎外の書いた「石炭景気に沸く北九州」に奮起

 石炭がエネルギー源の筆頭であった明治、大正、昭和初期にかけて麻生太吉、安川敬一郎、貝島太助は「筑豊のご三家」と呼ばれた。

 森鴎外が石炭景気に沸く北九州の様子を「吾をして九州の富人たらしめば」の中で書いている。鴎外が小倉に左遷されたのは1899(明治32)年のことだが、人力車に乗ろうとしても「先約がある」とか、「病気で動けない」とか言って乗車拒否に遭う。車夫たちは炭坑関係者が何倍もの高い運賃で乗ってくれるので、役人風情など相手にしたがらない。雨の中、革靴で田んぼのあぜ道を2里(8キロ)も歩かされる羽目に陥る。この文章が麻生を奮起させたともいわれる。

 『財界物故傑物伝』(実業之世界社編)は麻生の横顔をこう描いている。

 「麻生は見るからに躯幹雄大、異相で、人呼んで日蓮上人と称したが、その資質もたぐいなく強剛で、いったん思い立ったことは是が非でも貫かずんば止まざる意力を蔵していた。明治以来の財界の偉傑のうち、彼ほどネバリ気と反発力を持った人物は少ない。また彼は天成の善人、金もうけは上手でも不正直ではないだけに短気一徹で怒りを発し、後でみずから悔いるという珍談もあったが、後年は実に円満な長者の風を成した」

 また『大正人名辞典』は、浮沈の激しい炭坑経営の難しさに耐えて大成した麻生についてこう称賛している。

 「およそ炭坑の事業たるや、ひとたび成功すれば、富豪実業家として屈指せらるるに至る。その盛衰、消長また大にしてこれの経営は尋常一様の手腕、材器の卓絶せる者に非ずんば、炭坑経営を全うすること困難なり」

 筑豊ご三家は日清、日露の両戦役、欧州大戦と戦乱のたびに巨利を博し、石炭成り金と称された。

 貝島と安川が徒手空拳から身を起こしたのに対し、麻生家はもともと裕福だっただけに波乱万丈の生涯とはいえないにしても、遠賀川育ちの闘魂ではだれにも引けを取らなかった。景気の谷間の反動期は炭価が暴落し、苦渋を味わうが、そのつど二枚腰で盛り返し底力をみせつけた。

 麻生家は代々筑豊炭田のど真ん中で大庄屋をやるほどの資産家であった。先代賀郎は剛毅な気性と知略に長けていて理財の才覚も豊かであった。太吉は午前中役場に出て、午後は炭坑で働いた。

瓜生長右衛門は幼少時からのライバル

 太吉は少年期には知恵付きの遅いほうであったが、長ずるに従い、目に見えてたくましくなっていった。1880(明治13)年に父と協力して綱分坑を開発した。この時組合組織にして開発資金を集めて成功した。1884(同17)年には鯰田坑に取り掛かった。この時、父賀郎は「太吉、貴様に長右衛門を付けてやる。相談してやってみろ」と命じた。

 瓜生長右衛門は幼少時から麻生家に住み、共に寺子屋に通い、とんぼを追いかけた仲だが、このころは互いにライバル心を燃やす間柄だった。賀郎はそこに目を付け、長右衛門と競わせようとした。太吉と長右衛門はこれから半世紀にわたり形離不稚の関係を保つことになる。2人は毎日毎日、つるはしをふるった。

 「勇将のもとに弱卒なしのたとえにもれず何十人かの抗夫たちも競って精を出した。『おれもつるはしから鍛えてきぞ』との誇りと信頼とを胸底に蔵したことは、以降50年間の太吉の生涯にとって力強い一つの礎石であったろう。後年折に触れて発揮せられた、難局に当たっても微動だにせざる確乎(かっこ)不抜の豪邁な態度は、はからずも抗夫生活の日の賜であった」(『麻生太吉伝』)

 2年間汗と脂を流し堀り続けて、1886(明治19)年秋、やっと炭脈を掘り当てた。石炭業界ではこれを「着炭」と呼んだ。新坑の開発に際し、「着炭」こそは、敵陣の本の丸を陥れたに等しい快挙であった。つるはしをふるっての肉弾戦に勝利し、嵐のような万歳の声が坑内外にとどろく。だが、この時、太吉は奇妙なことを口走った。「しばらくこの山を休んで、忠隈坑を見に行きたい」

 せっかく着炭してこれから本格的に堀り出そうと腕をなでている長右衛門はじめ抗夫たちのけげんそうな顔を尻目に太吉は「明日から忠隈坑に移るんだ。皆で」。皆は意味不明のまま、鯰田から忠隈に移った。太吉の狙いが分かったのはその5年後のことだった。=敬称略

【連載】投資家の美学<市場経済研究所・代表取締役 鍋島高明(なべしま・たかはる)> 

■麻生太吉(1857-1933)の横顔
 1857(安政4)年筑前区嘉麻郡立岩村(福岡県飯塚市)で生まれ、1881(明治14)年父賀郎とともに嘉麻社を組織、1888(同21)年炭坑不況で苦心惨胆、1889(同22)年鯰田坑を三菱に売却、1991(同24)年忠隈坑の経営に着手、1894(同27)年忠隈坑を住友に売却、1896(同29)年嘉穂銀行頭取、1899(同32)年衆議院議員に当選、1907(同40)年藤棚坑、本洞坑を三井に売却、1911(同44)年筑豊石炭鉱業組合総長、1912(大正初)年にかけ次々と鉱区を開拓、1920(同9)年麻生商店(資本金1000万円)を設立、1921(同10)年全国石炭鉱業連合会を結成、初代会長に就任。

最終更新:1月25日(木)5時57分

THE PAGE

 

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