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エネルギー小国日本の選択(9)消費抑制、省エネの時代

10月19日(木)16時30分配信 THE PAGE

 1990年代初頭、まだバブル景気の余韻に浸っていた日本は、その急激な崩壊により長期の大不況時代へと陥った。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の栄光は過去のものとなった。地価と株価は暴落し、信用不安から金融機関は混乱を来し、貸し渋りや貸し剥がしも横行した。

 そうした時代にあって、エネルギーを取り巻く環境も変化の波にさらされた。高度経済成長に見られたような、需要増に応える政策と異なり、消費に歯止めをかける方向、すなわち省エネ、効率化が推し進められた。

 日本が足踏みしている間に、中国をはじめとする新興国の成長が目立った。2000年代には新興国の旺盛なエネルギー需要をめぐり、資源の争奪戦も起きた。石油をはじめとする資源価格が高騰し、資源ナショナリズムやエネルギー安全保障という言葉が多用されるようになった。

 依然エネルギーの海外依存が課題の日本は、世界に誇る省エネ技術や原発のインフラ輸出を掲げ、官民を挙げて資源獲得に挑んだ。そうした折に起きた2011年3月11日の東日本大震災。津波による福島第1原発事故で情勢は一変した ── 。

 まずは、1990年~2000年代の、おおよそのエネルギー情勢、政策の流れを見ていきたい。

バブル崩壊

バブルの象徴だった東京・芝浦のディスコ「ジュリアナ東京」で踊る若者たち(撮影:1992年3月、Fujifotos/アフロ)
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バブルの象徴だった東京・芝浦のディスコ「ジュリアナ東京」で踊る若者たち(撮影:1992年3月、Fujifotos/アフロ)
 1989年末に過去最高を更新した日経平均株価は、翌1990年には半値近くまで急落した。「土地転がし」により高騰していた地価も、1990年3月の大蔵省通達「土地関連融資の抑制について」などに伴い、暴落。土地への投機的な資金の流入は止まっていく。

 大阪の証券街・北浜で働く名うての証券マンは「かつて『4万円までいきまっせー』言うてた時代もあったなあ」と当時を振り返る。

 1989年は企業がお金を持て余していることをうかがわせる買収劇もあった。9月にソニーがハリウッドの映画会社、コロンビア・ピクチャーを、10月には三菱地所がロックフェラーセンタービルをそれぞれ買収。いずれも数千億円もの巨額で、当時「ジャパン・マネーが席巻」とか「買いあさり」と批判めいて報じられた。

 その後、程なくして日本は大不況に陥った。多くの企業や個人は保有資産の評価損などに苦しんだ。そのベテラン証券マンは「株の世界に"たられば"はないけど、なんでもっと早く気付けなかったんだろう」と嘆いた。

相次ぐ企業倒産

「社員は悪くありませんから」と涙ながらに訴えた山一證券の野澤正平社長(ロイター・アフロ)
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「社員は悪くありませんから」と涙ながらに訴えた山一證券の野澤正平社長(ロイター・アフロ)
 「社員は悪くありませんから」。1997年、経営破綻した山一証券の社長が会見で涙ながらに訴えた。山一は当時、野村、大和、日興と並び称せられた大手証券の1つだ。バブル崩壊の影響の大きさを物語る出来事として、山一破綻は間もなく20年経つ今も語りぐさとなっている。

 好不況や世相を映す1つとして就職先人気ランキングがある。バブルの1990年前後の超売り手市場から、一気に冷え込んだ1990年代後半は就職氷河期とも言われた。安定志向の就活生が増え、景気動向にあまり左右されない職種が人気となった。余談だが、リストラに踏み切る企業も相次ぐ中、地方公務員は失業不安が少ないことなどから、大卒者が高卒と偽って採用された例などが社会問題にもなった。

 電気やガスといったエネルギー会社もまた、社会インフラを支え、不景気の煽りを受けにくい安定した公的企業として人気を誇った。

 ただ、一方で不況の波は競争力強化をにらんだ規制緩和へと向かい、各業界で再編統合も進んだ。電力業界も例外ではなく、1995年に自由化が始まった。それが16年4月の電力小売り全面自由化へと繋がっていく。後に詳述したい。

伸び悩むエネルギー需要?

1997年、京都市で開かれた地球温暖化防止京都会議(写真:Natsuki Sakai/アフロ)
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1997年、京都市で開かれた地球温暖化防止京都会議(写真:Natsuki Sakai/アフロ)
 エネルギー消費量の増加は、1990年度から2010年度までわずか数%にとどまる。背景には経済成長の低迷も大きいが、省エネが進んだことも忘れてはならない。石油危機を契機に省エネ法が制定されたことは以前触れたが、1993年には同法改正で、省エネに関する基本方針が策定されたほか、一部の指定工場でエネルギーに関する定期報告が義務付けられた。

 同年には10年の時限立法で「エネルギー等の使用の合理化及び再生資源の利用に関する事業活動の促進に関する臨時措置法」(省エネ・リサイクル支援法)が施行された。省エネや再生資源の利用に積極的な事業者の支援措置を取り決めた。同年さらに環境保全を定める環境基本法も定められた。

 地球規模では1992年に、温室効果ガスの削減に取り組む気候変動枠組条約が採択され、日本も1993年に締結した。1997年には京都市で地球温暖化防止京都会議(COP3)が開かれ、先進国を中心とした温室効果ガスの排出削減目標を定めた京都議定書がまとまった。

 この流れを受け、翌1998年に大幅改正された省エネ法の下、新基準が導入された。すなわち「トップランナー基準」で自動車の燃費や家電やガス器具といった機器の省エネの基準を、商品化されている各機器で最も優れている物の性能以上にするという内容だ。

 その後も2002年、2005年、2008年と省エネ法は改正され、都度省エネの水準を切り上げていった。結果、欧米の省エネ先進国の中でも屈指の「世界最高水準を達成」(経済産業省)した。

 つまり、1990年以降、エネルギーの需要自体は増えていたものの、省エネにより消費量の伸びが相当程度抑えられたと分析されている。その根拠の一つとして、エネルギー消費を、製造業をはじめとする産業部門、事務所やホテルなどの民生部門、トラックや交通などの運輸部門ごとに見た内訳の例が知られる。すなわち、1990年から現在にかけて、省エネや効率化が進んだ産業部門ではかなり減少したものの、他の2部門は増加している。

 一方で石油は1990年代を通じて低価格だった。アメリカをはじめとする多国籍軍がイラクと戦った湾岸戦争(1991年)による高騰を除き、国際価格が1バレル当たり20ドルほどで推移した。
 注目すべきはこの間、石油危機による教訓が忘れられたかのように、中東産油国への輸入依存が再び顕著になったことだ。1967年度に90%を越えた中東依存度は、石油危機を経た20年後の1987年度に68.7%まで低下したが、1990年代の安い原油価格を背景に1995年度には80%まで上昇。2000年代中盤以降、再び90%近辺で推移している。

 また、石油以外のエネルギーの導入促進を目的として1980年にできた「石油代替エネルギー法」の特別法が1997年に制定された。「新エネルギー利用等の促進に関する特別措置法」、通称「新エネ法」だ。

 新エネルギーとは、再生可能エネルギーのうち、太陽光や風力、地熱、バイオマスなどのエネルギーを指し、水力発電は除かれる。法制定により、新エネ推進の基本方針と新エネ利用者への支援策も定まった。併せて、住宅向け太陽光発電の設置費補助も拡充された。

 このように、日本のエネルギー事情は景気低迷期にあっても、試行錯誤しながら大きく変遷を辿った。次回は、そうした中でピークを迎えていくガソリンなどの石油製品の消費やそれに伴う再編統合、電力やガスの自由化の流れを見ていきたい。

最終更新:10月24日(火)5時52分

THE PAGE

 

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