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口を開くたびに男を下げた石原元都知事

「責任」は誰に、どのようにあるのか

3月17日(金)6時10分配信 JBpress

石原慎太郎元都知事が記者会見を開いた。しかし口を開くたびに男を下げ、毎日政務に励む小池百合子東京都知事(写真)に比べられ、男の面汚しとも言える状態になってしまった〔AFPBB News〕
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石原慎太郎元都知事が記者会見を開いた。しかし口を開くたびに男を下げ、毎日政務に励む小池百合子東京都知事(写真)に比べられ、男の面汚しとも言える状態になってしまった〔AFPBB News〕
 石原慎太郎元知事は3月20日の都議会百条委員会での証人喚問を控えている。しかし、氏は「座して死を待つつもりはない」として、自らの所信を3月3日に記者会見で表明した。

 家から出てくる氏に記者が「どんな心境ですか」と問うと、「果し合いに出かける昔の侍の気持ち」と語った。

 心意気を壮としたいが、氏がこの期に及んで百条委員会に呼ばれる理由を勘違いしていたのか、肝心な点では「記憶にない」や「みんなの責任」など、すっきりしない幕切れとなった。

 問題は豊洲市場への移転の遅れの遠因である汚染処理を含む契約と汚染の現状、さらには基本計画と都民への説明の食い違いなど、どこまでも石原都政時代の移転決断上の不明点の解明と責任の所在である。

石原さんらしくない記者会見

 石原氏は都民が選挙で選んだ都政の最高責任者であったが、部下たちは部局や専門事項についての司ではあってもあくまでも知事が選び、あるいは承認した官僚でしかない。

 大部は部下に任せていたとしても、重要事項(大きな予算事案など)の要所では関心をもって途中経過などについて問い質し、あるいは報告させるなど、最高責任者として関心を払うのが当然であったろう。

 こうした視点からは、都行政のトップにありながら無責任さだけを浮き彫りにした記者会見の様相を呈した。

 翌日の新聞社説は「石原氏は責任を回避するな」(読売)、「結局は責任逃れなのか」(毎日)、「責任逃れではないか」(東京)と、「責任」を書き立てた。

 中でも読売新聞は「部下や専門家にすべてを任せ、追認するだけだったという。都政の最高責任を担っていたとは思えない」と書き、東京新聞は「リーダーとしての責任の重みをわきまえないまま十三年余にわたり、首都の代表を務めていたのか。(中略)凍結状態に陥った大事業を前に何らの痛痒も感じないのか」と厳しく追及した。

 社説以外では「石原氏 居直り1時間」「専門家が決めた」 (朝日)、「石原氏 苦しい釈明」「売買交渉 一任」(読売)、「行政全体の責任」「東ガスとの交渉『知らぬ』」(毎日)、「私一人の責任ではない」「部下信頼してはんこ」(東京)、「責任転嫁に終始」「側近に用地交渉一任」(産経)、「すべて任せていた」「築地の人が生殺しだ」(日経)など、スポーツ紙に劣らずとは言わないが大活字が並んだ。

 石原氏の体調を考慮してか、記者の質問は全般に穏やかなものが多く、気持ちをいらだたせるような質問は以下(要旨)のようにわずかでしかなかった。

 フリー記者の「責任逃れの恥晒しとしか聞こえない。都民に膨大な損害を与えた。日本男児の愛国者を標榜する石原氏は恥とは思わないのか」という厳しい詰問であるが、「司、司が決め、議会も承認したので、裁可した。恥とは思わない」との返答。

 司会者は「自分には知見がないから従うしかない。だったら知事はいらない。司、司がいるだろうがすべてを含めて大きな観点から判断するのが知事ではないか」と問いかける。これには「部下を信じて任せ、行政の手続き上裁可しただけだ」との回答である。

 ある記者は「石原氏にとって豊洲移転の優先順位はどれくらいであったか」との問い。これには「財政再建などもあった、どの問題に対しても専門家や司、司に任せていた、議会の専門委もあった」など、同じ返事の繰り返しがほとんどであった。

 ざっくり言って「石原さんらしくない」記者会見で、今流に言えば「何 この人?」「ピント ずれてない?」と思いたくなる状況という以外になかった。

 JBpress拙論「石原元都知事、作家との二足の草鞋で公務が疎かに?  部下に任せても責任を取るのが政治家」でも書いたように、2006年2月から1年間の石原氏の登庁は130日、勤務時間の平均は4時間余でしかないと言われる。

 部下に任せきりであった重要案件について、庁外が多く十分な目が届かなかったのではないかというような質問がなかった点では、記者たちの質問も必ずしも的を射たものではなかったようだ。

 石原氏が訴えたかったのは、在職間の職務に対する自己の責任問題ではなく、どうやら専門家たちが豊洲は問題ないと言っているのに、移転を遅らせている現小池百合子知事の「不作為の責任」を問いたいという視点だけのように思えた。

石原さんだからしようがない

 環境問題で石原都知事(当時)と協力してきた野口健氏が産経新聞の「直球&曲球」のコラムで石原氏について書いていた。

 「ディーゼル車規制、銀行税、東京五輪、挙げればキリがないが、『石原節』で国と丁々発止やりながら、改革を断行した」と、東京から国を変えてきた成果を述べている。

 また、「時にはとんでもない暴言も飛び出す。でも『石原さんだからしようがないか』。そんなふうに思わせてしまう不思議な魅力があったし、受け止める側にも度量があったような気がする」とも書く。

 何時だったか、「第三国人」発言が問題になった。

 一般的には当事国以外の第三国の国民という意味であることは確かであろうが、占領下の日本においては旧日本領の台湾や朝鮮の国民を指して言っていたこともあり、一般的な表現とはいささかニュアンスが異なる。

 しかし、この時も「石原さんだからしようがない」と、国民の多くは思ったのではなかっただろうか。

 知事辞職後の国会議員にカムバックした後の国会論戦でも、憲法問題を取り上げ、前文の文言には用語としておかしい点がある。たった1字を変えるだけで日本語らしい文章になると、安倍晋三首相に問うでもなく滔々と演説風にしゃべり続けていたことを思い出す。このときも「石原さんだからしようがない」と思うばかりであった。

 都民(や国民)にはうかがい知れなかったが、石原知事時代は都庁や都議会などにおいても「石原さんだからしようがない」という意識が無言の中に働いたのではないだろうか。

 庁外が非常に多いということも、そうした「石原さんだからしようがない」の結果として、問われなかったのかもしれない。

 石原氏が言うように、豊洲に関して中間報告などをあまり受けていないということであるならば、各部局の長である司、司たちも、無言の中に「全権委任」的な思い上がりがあったのかもしれない。

司、司の責任と言うが

 記者会見で、石原氏の口からいやというほど聞かされた言葉が「司、司に任せていた」というものであった。これを聞きながら、石原氏を知事として4回も選んだ都民はどんな感じをもっただろうかと忖度しながら聞き入っていた。

 ざっくり言って、「私は専門家ではない、行政の手続き上から裁可しただけだ」として、責任は「司、司」や「専門家」にあるという見解にはあきれてものが言えなかった。

 司、司や専門家に事務的なことは任せるにしても、最終的にはその重要性を認識して、裁可するなり、再考を促すなり、不裁可にすることができるのが政治家である都知事であり、責任はすべて引き受けるのが組織の長というものではないのだろうか。

 知事の全責任のもとに、専門的事項についてはさらに下位の司の責任が問われるというのが一般的でもあろう。

 「産経新聞」(平成29年3月4日付)は、「石原氏は庁外も多く、事実上、副知事が実務を仕切ることが多かった」「小池百合子知事が休みなく公務をこなす背景には、『知事職』の在り方を熟知しているともみて取れる」と書いている。

 人口や予算規模などからは1つの国家にも匹敵する東京都である。その首長が何ゆえに、都の幹部も承知していない庁外が多かったのか。そして庁外で何をしていたのか。こうしたことが、今日の大きな問題の原点にあるのではないか。

 司、司や専門家に任せていたという以前に、「庁外」が大きな盲点のように思えてならない。その意味で、「司、司に任せていた」という文言にはいささかどころか、大いなる失望しか感じ取れなかった。

 哲学者の適菜収氏は「賢者に学ぶ」(「産経新聞」平成24年12月7日)のコラムで、民主党政権時代の首相を意識してか、「政治家の資質について」と題して書き、「きわめて明瞭に語り尽くしたのがマックス・ヴェーバーの講演録『職業としての政治』である」と述べる。

 そして、骨になる文節などを引用しながら、「『善き』目的を実現するには、倫理的にいかがわしい手段や、少なくとも倫理的に危険な手段を利用せざるを得ない」し、「『悪しき副産物』が発生する可能性もある」が、政治を職業として行う者は、「この『倫理的パラドックス』を考慮に入れた上で、『それにもかかわらず!』決断を下すしかない」、「全体を見据えて現実に踏みとどまり、責任逃れの回路を自ら断つ人間。ヴェーバーは政治家になるべき『成熟した人間』をこのように規定した」といい、政治家は「判断の結果に全責任を負うことである」と述べる。

 また、官吏は政治をなすべきではなく、行政をなすべきである。官吏はたとえ間違っていると思えるような命令でも命令者の責任において誠実かつ正確にやることが名誉である。

 政治指導者は行為の責任を自分1人で負うところにあり、責任を拒否したり転嫁したりすることはできないし、また許されないとも述べる。

おわりに

 司、司、あるいは専門家と称しても、しょせんは官僚でしかない。最高責任者の責任において、仕事をしたわけで、その責は命令権者にあるというヴェーバーの言に鑑みて、石原氏の言動には納得しがたい面が多かったように見受けられた。

 豊洲問題に限らず、いま週刊誌などでは、石原知事時代の高額の外国出張や飲食、四男の芸術関係経費、そして新銀行東京への融資問題なども騒がれている。数千億円の都民の金が消費されている。

 ヴェーバーは「政治家は、自分の内部に巣くうごくありふれた、あまりにも人間的な敵を不断に克服していかなければならない。この場合の敵とはごく卑俗な虚栄心のことで、これこそ一切の没主観的な献身と距離―この場合、自分自身に対する距離―にとって不倶戴天の敵である」と述べている。

 いま石原氏に問われているのは、そうした諸々の敵との間のとり方が正しかったのかという問いではないだろうか。
筆者:森 清勇

最終更新:3月17日(金)6時10分

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