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【ウォール街回想記1】1960年代、日本は新興国だった バーナムの伝説的人物

3月15日(水)15時10分配信 THE PAGE

写真提供:アフロ
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写真提供:アフロ
 米国のニューヨーク州マンハッタン南端部に位置する「ウォール街」は、世界の金融センターとしてその名を轟かせています。日本の金融機関が米国に進出しはじめたのは1960年代後半。当時は米国証券会社に日本人が直接雇用される例はたいへん珍しかったそうです。そこで、社会人デビューを果たすことになった日本人証券マンは何を見て、何を経験したのでしょうか?
 1969年。当時はウォール街国際化の黎明期に当たります。同年10月、私は米国の証券会社バーナム・アンド・カンパニー(以下バーナム)に入社し(正確には6カ月間のトレーニーとして)右も左も分からずにウォール街に飛び込み、未知の世界での航海が始まりました。

 米国の金融信用創造は、実態経済活動の約2倍で成長し続けてきたので、ウォール街は業界として同様の軌跡をたどりました。当時、米国の銀行および証券業界は今日同様に、経済体制の基幹的役割を果たしていましたが、とくに証券会社の規模は現在に比べて、はるかに小さいものでした。そして、多くの営業社員や支店網を抱える、メリルリンチのような、大衆向け証券会社は、殊に荒波にさらされ、統廃合の歴史を繰り返してきました。

 日本の4大証券会社(野村、日興、大和、山一)もその頃にニューヨークに支店を開設しています。ウォール街の地元証券会社で当時、日本人社員として働いていたのは知る限り、同僚の大鷹尚正さんだけでした。

1960年代初期、新興国として注目されていた日本

 日本は新興国として注目され、1960年代初期ごろ、米国の機関投資家やファンドは日本株投資に注目し始め、開始していました。

 ところが、ベトナム戦争が激化するなか、米国の国際収支は悪化し、ケネディ政権時代の1963年に、利子平衡税が施行され、配当に重課税が課せられる運びとなり、米国からの対外証券投資は大きく挫折してしまいました。そうであっても、1960代後半には成長が目覚ましい日本企業に再び注目が集まるようになりました。一つの要因として、1960年代の米国株式市場は空前のブルマーケットとなり、株価は過熱していたのに対し、東京五輪後の日本は証券不況に陥り、株価が明らかに過小評価となっていたことが背景にあります。日本も1964年にOECD加盟国となり、国際社会の仲間入りとして、資本の自由化を促進していた時代です。1970年にソニーはニューヨーク証券取引所に上場を果たし、日本株ブームの象徴となりました。

バーナムにまつわる伝説的な人物

 ウォール街は多くの伝説的人物を輩出し、枚挙に暇がありません。私の入社したバーナムの創業者I.W.バーナム氏もその一人です。彼は伯父の元で短期間修行した後、大恐慌のさなか、1935年に自己資金でバーナムを創業し、個人営業中心の業務から、1960年代には対機関投資家営業及び国際業務で急成長している証券会社でした。

 バーナム氏の祖父アイザック・ウルフ・バーンハイム氏は、1877年にパートナーのフランク・ハーパー氏とI.W.ハーパーを創設し、ケンタッキー・バーボンのトップブランドに成長しました。ところが、1920年代に禁酒法が制定され、休業を余儀なくされました。株を譲渡されていた子供たちは、紙切れ同然になった持ち株を全部売却してしまったのです。

 禁酒法は1933年に撤回され、家業は復活しましたが、怒ったバーンハイム氏は、遺産全額を野鳥保護団体のオーデュボン協会に寄付してしまったそうです。長男は外科医として開業し、孫はわずかの資金を元手に証券会社を創設したのです。ユダヤ系の名前バーンハイムをバーナムに改名しました。バーナム氏は1980年代の半ばに引退し、その後は、愛する大型ヨットと共に余生の大半を過ごしました。亡くなるまで多くの元社員に慕われていました。バーナムOB/OG会は今でも続いていて、記念イベントなどの機会に集っています。

バーナムの成功の裏に

 バーナムには、もう一人伝説的人物がいました。マーク・エダーシャイム氏です。オランダの富豪一家の子息で、1939年、第2次世界大戦が勃発する直前、金融業研修のため米国に在留していました。米国から観測した欧州は、ドイツのヒットラーが勢力を高め、危険を察知した彼は、親を米国に引き寄せることに成功し、危機を免れています。彼の弟は取り残され、戦時中に救出に成功しています。やはり財力がものいわせたのでしょう。つまりは、バーナムの成功の裏にはエダーシャイム氏の財力が貢献したことでしょう。

 1970年代の初期、ニューヨーク市は財政難に陥り、1975年に連邦政府の救済を受け、なんとか債務不履行を免れた経緯を経ています。不動産市況もどん底に陥り、今では信じられませんが、買い手が全くなくなる状況でした。9・11テロ攻撃で瓦解した世界貿易センターは、1973年に完成したものの当時はほとんど空室状況となっていたくらいです。がらんどうの巨大タワー2棟を眺めていたのを記憶しています。

 今でも鮮明に覚えていますが、エダーシャイム氏は、マンハッタン超一等地の5番街74丁目に大型マンションを37万ドルで購入し、終の棲家としました。現在の不動産価値は100倍を優に超えるでしょう。バーナムでは当初から筆頭株主で、成長に沿ってその地位を保っていました。

 当社は数度のM&Aを経て、ドレクセル・バーナム・ランベールとなり、1990年に破産する運命を辿りました。株式は公開されず、社員は退社するまで、株の売却はできませんでした。ところがエダーシャイム氏は、会社の貢献者として、かつ高齢を理由に、崩壊の数年前に持ち株の売却が許され、それを果たしていました。そういう星の下に生まれた人物でした。

(あおぞら証券 顧問 伊藤武)【ウォール街回想記2】へ続く

最終更新:3月20日(月)5時45分

THE PAGE

 

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